11.


 昏くて、冷たくて、寒い。いつも夢の中は寒いから、眠ることも寒いのも嫌いだった。
 明るい場所へ行きたいと願うと、決まっていつも現れる、白い手。その先に視線を伸ばせば、青い目と銀色の長い髪がある。自分と同じ。でも自分とは違う。優しく手招きするその手が誰のものか知っている。
(母……上……)
 その手を取れば、楽になれるのかもしれない。けれどそちらには何もない。
 父や兄はそちらにはいない。今は恨まれていても、生きていればいつかは――受け入れられるかもしれない。だから、いつも手を取れなかった。だが今母の手を取らないのにはもっと大きな理由がある。
(……りゆう?)
 なんだったのだろうと、逡巡する。夢の中とはいえ忘れてはいけないことのような気がした。ゆらゆらと、白い手は手招きを続ける。不意に、手招きする手が増える。
 母のものではない、男の手。――痩せこけた老人の手。
(だれ……だ……)
 訳もわからず全身が泡立った。母の隣で手招きするその、骨ばった手には見覚えがある。ごく最近――

「ダメ!」

 急激に、意識が覚醒に向かう。闇が蒼い光に包まれる。その光も、どこかで見た気がした。
 だがそれを思い出す前に、意識は覚醒へと向かう。

「……ッ」
 目を見開いた先もまた、闇だった。ただし、視界の端に淡い光がある。そちらに視線を巡らせると、小さなランプを灯して、金髪の青年が書物を開いていた。
「セラでなくてすみませんね。でもついさっきまでずっと付きっ切りだったんですよ」
 顔も上げずに、彼は抑揚のない声でそう言った。
 ティルはのろのろと体を起こすと、汗でべたつく額を拭った。
「……誰?」
 発せられた言葉に、金髪の青年は本を閉じた。それから立ち上がり、ティルを見下ろす。
「まぁ、いいですけどね。忘れたならそれでも」
 睨んでくるティルの顔は闇に沈んでよく見えないが、激しく息切れしているのは声でわかる。喋っていない今もゼイゼイと荒い息が聞こえる。とても調子がよさそうには見えない。なのにベッドを降りようとする彼を見て、ライゼスが咎めるように声を上げる。
「調子が悪いなら大人しく寝て――」
「今何月何日だ。俺は今まで何してた?」
 ティルの問いかけに、ライゼスが口を噤む。生まれた静寂を割いたのは、鍔が鳴る音だった。ベッドに立てかけてあった刀を取って、彼は立ち上がった。
「答えろよ……ボーヤ」
「……別に思い出さなくて良かったんですよ?」
「答えろ!」
 ティルが刀を抜く。咄嗟にライゼスは手をかざしたが、そこで彼の動きは止まった。ガシャンと、鞘が落ちる音が響く。斬りかかろうとしたティルが碧眼を見開く。
「お前……」
 鞘と床がぶつかった音の余韻が響く。それも消える頃、ティルは言葉を継いだ。
「魔法はどうした?」
 互いに沈黙する。また静寂。手を翳したままのライゼスと、刀を突き付けたままのティル。その静寂を割いたのは、足音と扉の開く音だった。
「何してるんだ、お前ら!」
 現れたセラが、ためらいなく二人の間に割って入る。真夜中にも拘わらず、彼女は昼と同じドレスで、髪も結ったままだった。休んでいないことが一目でわかる。結局気になって来たのだろう――ライゼスは手を下ろした。
「ティル、意識が――」
 セラの、ほっとしたような声はすぐに消えた。違和感に、ライゼスが顔を上げる。ティルは依然として刀を構えたままだった。セラが、その前まで歩み出ても、変わらず。
「……ティル?」
 その切っ先が触れるほどの位置にセラが来て、びくりとティルが手を引く。だが構えは解かないまま、ひと言彼は声を上げた。

「――誰、だ?」

 ランプが、ジッと音を立てた。炎が揺れて、三人の影も揺れる。――虚が生まれる。
 そのとき、ライゼスの頭の中ではリュナの声が響いていた。彼女が残した、忠告。

 心を砕いた原因が残っていては、心を繋ぐことはできません。繋いでもまた壊れてしまうから。でもそれをうまく取り除けたとしても、記憶は複雑に絡まり合っていて、どこで繋がるかわかりません。そのときに彼が受け止めきれず、再び壊れてしまったら――、もうあたしにも、どうすることもできません。
 
「……大丈夫」

 まるで同じ言葉を思い出しているかのように、あのときと同じことをセラは口にした。
 刀の切っ先を前にしても、まるで怯むことなく。それが自分を貫くはずがないと、信じて疑わないように。まるで無防備に距離を詰めてくるセラを前に、ティルの刀を持つ手が震える。
「……なんで……」
 まるで彼女に刀を向けることが絶対の禁忌だとでもいうように。
 傷をつけることを厭うように。
 刀が落ちる音も聞こえないほどの激しい眩暈と吐き気に襲われて、ティルはその場に膝をついた。胃液の味が口の中に広がる。
「……うぐ……ッ」
「ティル、大丈夫か!?」
 ティルの体を支えながら、セラはライゼスを振り仰いだ。
「魔法ではどうにもならないか? せめて……苦痛を減らしてやれはしないだろうか」
「ええ……いえ、」
 曖昧に答えながら、ライゼスは自らの手に視線を落とした。免疫力を高めたり、苦痛を和らげたりすることはできなくはない。気休め程度ではあるが、それでも使えるものなら使っていただろう。――いつもなら。
「とにかく……着替えと水を持ってきます。すぐ戻りますが……セラは、大丈夫ですか……?」
「ああ」
 返ってきた声は、ライゼスが思うよりずっと落ち着いていた。その顔も。
「大丈夫、落ち着いてる。意識が戻ったんだ。それだけで……充分だ」
 声にも言葉通り安堵が滲んでいて、少なくとも無理をしているようには見えず、ライゼスは立ち上がった。