7.


 静かなスラム街を、セラとライゼスはリュナの後について走っていた。
 行き交う者は誰もおらず、時折見かける者も建物に寄り掛かって眠っている。リュナの魔法でスラム街一帯の住人を全て眠らせているのである。
(さすがに僕でもこんな芸当は無理だ……)
 リュナの力について深く尋ねたことはないが、その源である右目を覆う眼帯には封印系の魔法が施されているのがわかる。ライゼスにも理解できないくらい複雑で強い力だ。
「リュナ……」
「リュナのその力は、本当に凄いな。正直驚いた」
 走りながらライゼスが口を開く。だがその少し前にセラが声を上げていた。相変わらず言いにくいようなことをストレートに言うものだとライゼスが嘆息する。しかしセラが口にすると嫌味がないのは、彼女の人柄だろう。リュナも少し罰が悪そうではあるが、気を害したような風ではない。
「パパには内緒にして下さいね。ホントはこんな使い方しちゃだめなんですけど……でも緊急事態ですから」
「すまない、リュナ。また巻き込んでしまって」
「水臭いこと言わないで下さいよ! それに無理を言ったのはあたしの方ですし。無事ティルちゃんを保護したら、ティルちゃんから相応の詫びとお礼を貰うのでばっちりです」
 角を曲がって、リュナがわざと明るい声を上げる。彼女なりにセラを元気づけようとしていることがわかって、ライゼスは内心リュナに感謝した。
「それにしてもリュナ……、あの人がいる場所、わかっているんですか?」
 スラムまでの道のりはともかく、スラムに入ってからも彼女の足は迷うことなくどこかを目指して進んで行く。問いかけに、リュナはツインテールを揺らして頷いた。
「この辺一帯にかけたあたしの魔法に干渉されてない人がいます。人は誰も心に隙がありますが、その隙が見えなくなるくらいの激情……弱さは逆に強い感情にもなるんです。この胸が痛くなるような寒くて冷たい感じ、多分……」
 ギュッとリュナが胸を掴む。ライゼスが使う精霊魔法とリュナが使う精神魔法は根本から異なるから、彼女の説明を聞いてもセラはもちろん、ライゼスにも理解はできない。だが、特異魔力を感覚で探知するのと似ているのかもしれないとライゼスは考えた。ともあれ、他にアテがない以上リュナを信じるしかない。
「気を付けて下さい。だいぶ近いです。それに、ティルちゃんだけじゃない……ティルちゃんよりもっと、とても冷たくて昏い……痛くて怖い……誰かが……」
 リュナの言葉の先は、要領を得ないまま消える。それと、声が聞こえたのは同時だった。
「……い。死ねない! 死にたくない!」
 悲痛な声と、ぶつかり合う剣の音。
「ティル!」
 セラがリュナを追い越して、廃屋の扉を蹴り破る。辛うじてライゼスはその彼女の左手を掴んだ。

「セラに会えないことより怖ぇことなんてねーんだよ!」

 セラが双眸を見開いた。その瞳に、ティルに向けて黒髪の青年が剣を振り下ろすのが映る。
「……ッ」
 飛び出していきそうなセラの腕を掴んだまま、ライゼスが逆の手を突き出して片手で印を切る。
「光よ!」
 一瞬早く相手が反応し、狙いは僅かに外れて青年の腕を掠めて光の筋が奔る。だが彼は手を止めるとゆらりと顔を上げてライゼスの方を睨みつけた。
 肩までの黒い髪と黒い瞳、やや痩せたがその面影には見覚えがある。
「セデルス王子……?」
 ライゼスが頭に思い描いた名を、セラが驚いたように呟いた。
 セデルス・レフ・リルドシア――ティルの一つ上の兄で、リルドシア第九王子。ただし、内乱の首謀者としてリルドシアを追放されているため「元」がつく。
 その彼の足元に、何故かドレスを纏ったティルが倒れている。そして少し離れたところに、痩せこけた老人がうずくまっていた。酷く変わり果てた姿ではあるが状況的にリルドシア王だろう。
「邪魔をしないでもらおうか。今いいところなんだよ」
「……リルドシア王の失踪もその人を拉致したのも、貴方が黒幕ですね? ティルフィア姫に会わせる変わりに追放を解いてもらおうという腹ですか。セデルス」
「無礼者が! 私はリルドシア王家の高貴な人間だぞ。気安く呼ぶな!」
「無礼なのはどちらです。貴方が誰であれ、ここはランドエバーだ。貴様の子供じみた我儘で好き勝手していい場所じゃない。尤も、世界中にそんな場所などどこにもありませんが」
 腕を振りほどこうとしていたセラが動きを止める。気づいたのだ。腕を掴んでいるライゼスの手が震えているのに。
 その手が離れて、セラの腰にある剣に伸びる。ライゼスがそれを抜き放つのを、セラは止めることができなかった。これほど感情的に怒ったライゼスを、セラは見たことがなかった。否、一度だけ――彼が初めて剣を振るうのを見た、あの日。
「ラス……」
「約束ですよ、貴方は大人しくしていて下さい。……あの馬鹿を頼みます」
 ライゼスが剣を用いて戦うのをセラはよく思わない。とはいえ約束した手前強くも言えないし、倒れたままのティルの安否が気にかかるのも事実だった。怒っているのもあるだろうが、ライゼスもそれを見越して言っているのだろう。セデルスがいつその刃をティル、あるいはこちらに向けるとも知れない。躊躇いながらも、セラは頷くと手を引いた。
「さて……、よくも色々引っ掻き回してくれましたね。覚悟はいいですか?」
「後悔するぞ。こいつは厄介を呼び込む疫病神のようなものだ。そのリスクを負ってまでリルドシアのような小さな国など相手にしても、ランドエバーに何の得もないだろう」
「ええ、後悔していますよ」
 剣を向けられて、憎々し気にセデルスが呟く。その恨み言を、ライゼスはいとも軽く肯定した。
「あのとき貴様を殺しておけば良かったと、本気で後悔してる」
 いつか破綻する仮初の日常を、いつか終わりの来る穏やかな時を、それでもセラは必死に大事に守ってきた。ライゼスも、そしてティルさえも、そのセラの想いを守ろうとしてきたのだ。束の間と知りながら、それでもセラが全てを賭けて守ろうとした平穏を、彼は踏み躙った。
「――だから今殺す。己の行いを悔やんで死ね!!!」
 セデルスがライゼスに剣を向ける。だが、すぐに彼はそれを後悔することになった。その剣先が震える。
 本能で、彼は感じ取っていた。敵に回してはいけないものを、敵に回したと。
 そのとき、セデルスはようやく思い出した。森をうめつくすほどの人数を従えてティルを抹殺に出向いたときに、その集団がたった一人の少年に壊滅させられたのを。
「ふ……ざけるな!!! 私はまだ終われん、ティルフィアをこの手で殺すまでは終わらん!!」
 剣の腕だけで言えば御せる。なのに執念と怨念のこもった太刀筋はその実力差を埋めて襲い掛かってくる。怒りに遠のきそうになる理性をどうにか手繰り寄せて、ライゼスはセデルスの剣を捌いた。口では殺すと言ったが、殺して終わらせるだけでは気が収まらないし、それに仮にも元王家の人間である。勝手に殺してはアルフェスに迷惑がかかるかもしれない。
「結構だ、こちらも楽に終わらせてやる気などない!」
 セデルスの大振りの一撃をかわして踏み込む。急所を外して一撃を入れる。命に係わる場所ではないといえ、決して浅くはない傷を受けてもセデルスは一瞬も怯まず、流れる血も厭わずに踏み込んでいる。その目だけがギラギラと憎しみに燃えている。
 仕方なく、ライゼスは後退した。誘いに乗って、セデルスの剣がライゼスを追う。
「お姉様、今のうちにティルちゃんを」
「あ……ああ」
 リュナに声を掛けられて、セラがはっとして返事を返す。ライゼスが、セデルスをティルから引き離すように戦っているのに気が付いて、セラは急いでティルの元に駆け寄った。
「大丈夫か、ティル?」
「……セ……ラ」
 僅かに目を開けて、ティルが呻く。あたしもいるのに、とリュナがやや不満げな声を上げた。
「怪我してるのか? 今手当する」
 ティルの白い顔は血で汚れていて、セラは眉を潜めるとその血を手で拭おうとした。その手にティルの手が触れる。そして、彼は微笑んだ。美しい笑顔だった。
「試合……見てた。優勝、おめでとう……」
「馬鹿、今はそんなことどうでも――」
 するりとティルの手が離れ、そのまま彼は気を失った。
「止血だけでもしておいた方がいいかも。あたし包帯持ってます」
「ありがとう、リュナ。助かる――」
 ポーチを探り出したリュナを振り仰いで、セラは言葉を止めた。その先に、短刀を振りかぶったリルドシア王の姿を見て、サッと血の気が引く。
「リュナ!」
 咄嗟にセラはリュナを突き飛ばした。
「儂の娘に……触るなァァァァ!!」
 狂ったように叫びながらリルドシア王が短刀を振り下ろし、セラの眼前に短刀が迫る。剣を抜こうとした右手は動かなかった。そして、どのみち剣はライゼスが使っている。だが避ければ、短刀はティルを貫くだろう。
「セラ!!」 
 ちょうどセデルスを切り伏せたライゼスが魔法を使おうと手を翳すが、倒れたセデルスがその足を掴んで態勢を崩され、放った魔法の軌道がズレる。一撃を覚悟して、セラは固定具を付けた右手を翳した。だが痛みも衝撃も一向に訪れず――気味の悪い静寂の中で、恐る恐る手を下ろす。
 リルドシア王は、短刀を振りかぶったままの姿勢で微動だにしていなかった。その胸には白銀の刀が突き立っていた。
 振り返ったセラの表情が、凍り付く。
「やっと……守れた……」
 穏やかな微笑みを顔に貼り付けて、ティルが満ち足りた声で呟く。手にした刀から、血の雫がポタリと零れ落ちた。