ティルの選択 3


 しん、と今度こそ辺りが静まり返った。誰も何も言い出せぬ間、だがその間に、セデルスの顔色がじわじわと変わっていった。
「なんと……なんという、侮辱!」
 絞り出した声が、震えていた。いや、声だけではない。わなわなと身体中を震わせて、そして刃を持った手を、空へと掲げた。
「者ども、来い!!」
 そして、叫ぶ。それを合図にして、森の気配が一斉に動いた。その数に、エラルドが絶望的に呻く。ティルにしてもセラにしても、備えていたからとてどうにかできる数ではなかった。数十人にものぼるであろう、いずれも覆面を纏ったものたちが、あっという間にセラ達を取り囲む。
「リルドシアの姫を消す、そう触れればこれくらいの数は容易に集まる、ティルフィアはそういう存在だ! それでも吼えるか、異国の騎士よ!」
 絶体絶命の状況に、ライゼスとティルは動揺し、エラルドは絶望の様相を見せたが、セラは全く表情を変えていなかった。ただ真っ直ぐにセデルスを見据え、構えた剣も降ろさない。だがその剣を持った手にふわりと白い手が重なった。
「もういいですわ」
 ティルだった。穏やかに告げて、優しい微笑みを浮かべる。どうしてこの状況でそんな風に笑えるのか、セラは不思議だった。だが、作り笑いにも無理に笑っているようにも見えない、どこまでも優しい笑みだった。
「もっと早くに、わたくしは消えるべきだったのです。セデルスの言うことは何も間違ってはいませんわ。だからもう剣を退いてください」
「それは、できません」
 重ねられたティルの手に力がこもる。剣を降ろさせようとしていることに気付いて、だがセラは余計に剣を持つ手に力を込めた。
「私は貴方の護衛です」
「わかっています。わたくしの言っていることは、あなたの騎士の誇りを汚すことでしょう。それでももう、わたくしのために誰かの運命が狂うのを見過ごすことはできません。どうかわかってください」
 言いながら、ティルはライゼスとエラルドの方を振り返り、同様に微笑んだ。――これだけの人数に一斉に攻撃されれば、いくらセラとて切り抜けるのは不可能だ。また、セラ達を命の危険に晒し、兄弟を斃してまで生き延びる意味も意義も、ティルにはもはや見出せなかった。その上の決断だというのに。
鋭い翠の双眸は、決めた心をかき乱すくらいに強く、強くティルを射貫いた。
「わからない!」
 セラの細腕は、男であるティルが力を込めて抑えたはずの手を、簡単に振り払った。
「王家に産まれた以上……いや生きている以上、確かに綺麗事だけでは済まない! だけど、だからこそ簡単に、自分を、誰かを、見捨てたり切り捨てたりしてはいけないんだ!」  セデルスに、ティリオルに、ティルに、――そして自分に。渾身の力でセラは叫んでいた。
「ラス! 力を貸してくれ!!」
 呆然とするティルの向こう、ライゼスに向かってセラは叫んだ。その言葉が、判断を迷っていたライゼスの心に、真っ直ぐに突き刺さった。
 今にも切りかかって来そうなセデルスや、周囲の覆面たち。その死と隣り合わせという状況で、セラはどこまでも落ち着いていた。そして、ライゼスも。
「僕は、任務より、名誉より、誇りよりも、セラが大事です。だから――戦います」
 ティルが、咎めるようにライゼスを見る。それを無視して、ライゼスは身構えた。
「――やれ!」
 セデルスの声が響き渡る。それと同時に、黒覆面達が走り出す。
「……ッ、俺が死ねばそれでいいってのに!」
 ティルが刀を抜く。正体を看破されたとしても、セラ達だけを戦わせるわけにはいかない。
『光よ! 我が前に集いて濁濁なるもの焼き祓え!!』
 ライゼスが、昼間と同じ呪文(スペル)を唱える。
最大限の魔力を込めて放った魔法は、それなのに昼間の威力の何分の一にも満たなかった。それでも、二、三人の覆面が弾かれて倒れる。致命傷になるとも思えなかったが、それによって数人が体勢を崩した。そこにセラとティルが斬り込んでいく。
だがエラルドは自分の身を守ることで精一杯だし、ライゼスも接近戦になればやられる。必然的にセラとティルはライゼスとエラルドを庇いながらの戦いになった。
(このままじゃ、いくらももたない……!)
 ティルの、刀を持つ手に汗が伝う。追い込まれるのはすぐだった。
「驚いた。今まで何度も暗殺されかけながらお前が生き延びた手品は、そういうタネだったのか」
 ギリギリと覆面と鍔迫り合いをする向こうで、セデルスが声を上げる。心底驚いた声だった。
「だが、今度は無理だ。もうわかっているだろう? ――そうだ、ティア。おとなしく私に討たれるがいい。そうすれば、エド達は今は殺さないでおいてやろう」
(俺が戦えることを知って、確実な手に変えようって腹か。用心深いセデルスらしいぜ)
 胸の中で毒づき、ティルは相手の刀を跳ね上げると、それによってがら空きになった胴を薙いだ。激しく肩で息をつく。すでに疲労は限界に達していた。まだ致命傷はないが、あちこちに受けた傷とそこから流れる血は、確実に気力を削いでいく。
(充分、魅力的な取引だ)
 ふ、と口元を緩ませる。
「やめろ、ティア! どの道セディは俺達を見逃さない! 王位を狙っているなら俺も邪魔な筈だし、セリエス達も口を封じられる!」
 エラルドが止めるが、ティルは取り合わなかった。
「わたくしを討てば、向こうにも油断が生まれるはず。少しの可能性でも今は大事です」
「ティル!」
 会話を聞きつけて、セラが叫んだ。だけど、いつの間にかティルとの間に距離ができていて歯噛みする。必死で道を切り開こうとしているのだが、倒しても倒しても、次から次へと覆面達は襲い掛かってきてきりがない。そうこうしている間に、ティルは高らかに叫んでしまっていた。
「取引に応じますわ、セデルス! この者たちを退かせなさい!」
「良い子だ、ティルフィア。――退け!」
 ティルの言葉に、セデルスは勝ち誇った笑みで応じた。彼の一声で、覆面達の猛攻が止まる。それを見て、ティルが刀を捨てる。セデルスがその刀を拾い、振り上げる。
 そして、ティルが目を伏せる。

「ダメだ! ティル――ッ!!」
 
 間近で聞こえた声に、ティルは反射的に目を開けた。その目に、無防備に飛び出してきたセラの背が移る。セデルスが刀を振るい、セラの体が地面に落ちる。
 ライゼスは叫ぼうとしたが、声は出なかった。喉がカラカラで、引きつった呻きが僅かに漏れただけ。全身の血が凍りついたように、身体が冷えていた。
「セデルス!!! 貴様ァァッ」
 ティルの憎しみに満ちた声と、別人のように凍った瞳に、もう一度刀を振り上げようとしていたセデルスが一瞬怯んだ。その隙をついてティルはセデルスの持つ刀の柄を握り、逆の手で顔面を殴りつけた。セデルスの手が刀から離れ、血を吹いて倒れる。それ以上はセデルスに目もくれず、ティルはセラを抱き起こした。ようやくライゼスが足を前に踏み出すことができたのは、その頃になってからだった。だが一歩動いてしまえば、今度は弾かれたように身体が動いた。覆面達を押しのけ、突き飛ばして、セラの元へと駆け寄り、その傍で手をついて屈みこむ。
「セラ!」
「……大丈夫。気を失っているだけだ」
 傷を診たティルが、安堵を隠せない声で呟く。さすがに剣で受ける余裕はなかったようだが、セラは咄嗟に腕で急所を庇っていた。その腕にしても服の下を籠手で補強していて、ごく軽傷だ。だが受け身までは取れず、倒れたときに頭を打って気を失ってしまったのだろう。
「ボーヤ、今のうちにセラちゃんを連れて逃げろ。俺が囮になるから――」
 手早く止血をしながらティルは早口に告げた。だが返ってこない返事に、顔を上げてライゼスを見る。
「聞いてるのか? 呆けてる場合じゃないぞ!」
「――――」
 俯いたままのライゼスに、ティルが怒鳴りつける。すぐにセデルスは起き上がってくるだろうし、覆面達もまた動き出す。時間がなかった。なのに、凍りついたように動かないライゼスに、ティルの焦燥が募った。
「僕が……僕が、守らなくちゃいけなかったんだ。セラだけは、僕が」
「何を言ってるんだ!? 早く、時間が……!」
 放心したようにブツブツと呟くライゼスの、肩を掴んで強く揺さぶる。だが、視界の端で何かが揺れて、ティルはそちらを見た。丁度、セデルスが体を起こしたところだった。
「ライゼス!!」
 ありったけの大声で呼ぶと、ようやく彼はこちらを見た。否、その瞳の焦点が合っていない。そしてその目つきも別人で、ティルが怯むほどに鋭く、冷たかった。ゆらり、と何かに操られたようにライゼスの手が動き、セラの横に転がった彼女の剣を掴む。
「何する気だ、ボーヤ! 正気に戻れ、お前の手には負えない……」
 肩を掴むティルの手を跳ね除けて、ライゼスが立ち上がる。
「やれ!!」
 鬼気迫る表情で、起き上がったセデルスが叫んだ。覆面達が一斉に、ティルめがけて再び襲い掛かってくる。
「くそッ……!」
 ティルが刀を握り直す。だが、彼が動くより前に。

「――――うおおぉぉぉおおおおおおッ!!!!!」

 鋭い雄叫びが闇を割った。