16.


「ライゼス様……」
 レミィの声が、その口にした言葉が酷く遠くで聞こえた――気がした。ティルはただ淡々と落ちた刀に手を伸ばしたが、その手は刀に触れることなく、殴られた衝撃で背が壁を叩く。そのままズルズルと崩れ落ちた彼の胸倉を掴んで、ライゼスは叫んでいた。
「ふざけるな……ッ、ふざけるな!! ふざけるのもいい加減にしろ、この馬鹿ッッ!!!」
 レミィには目もくれず――というか、見えていなかった。ライゼスは衝動のままにティルを殴りつけていたが、殴り返すことはおろか、避けようともしない彼を見れば苛立ちが増すばかりだった。やがて振り上げた拳が止まると、そこで初めてティルが口を開く。
「もういい……死を願われながら生きるのは、もう疲れた……」
 ようやく喋ったかと思えば出たのはそんな言葉で、ライゼスは歯を噛みしめた。
「セラは……、セラは貴方を必要としてるじゃないですか! それだけじゃ不足なんですか!?」
「……仮にそうだとして、俺には彼女に何も返せない……こんなことくらいしか……」
「そんなこと、セラは望んでいない!」
 ティルが微かに呻き、ライゼスはハッとして力任せに締め上げていた手を緩めた。咳き込みながら、ティルがその場に崩れ落ちる。
 それを見下ろしながら、ライゼスは激しく肩で息をついた。それほど動いたわけでもないのに息苦しくて仕方がない。その息を整える傍らに、やっとレミィの方を見る。その後ろには明りの下で血を吐いて倒れている初老の男がいた。レミィが目を背け、ライゼスも彼女から視線を外すと再びティルを見下ろした。
「……父上に何か吹き込まれたんですね?」
「親を疑うもんじゃねーよ……」
 その頃には彼も多少はいつもの調子に戻ったように見えた。だが聞こえた言葉はライゼスにしてみれば白々しく、吐き捨てるように言葉を返す。
「貴方がそれを言いますか? 誰も信じやしないくせに」
「お前もエレナと同じことを言うんだな……」
 知らない名に、ライゼスは怪訝な顔をした。だが元々彼のことなど素性くらいしか知らない。互いに自分のことを語り合うような仲でもない。それについては追及せずに、ライゼスは話を戻した。
「息子だからわかるんですよ。父上は陛下のためなら他の何をも容赦なく利用するし、切り捨てる人です。実の息子でもね」
 そのアルフェスが止めなければ、恐らく十三年前に自分は父に殺されていたはずだ。最初に暴走した事件の記憶を取り戻したときに思い出した。だがそれがなくても、ライゼスは薄々父のそういう気性に気づいていた。しかしティルは首を横に振った。
「もしそうなら、お前やリーゼアに今の生活はねーよ。俺が父上から言われて人を殺したのは八歳だったぜ。尤もそうでなきゃ生きれなかっただろうけど」
「…………」
「逆だよ。隊長はお前らを守るために全てを利用しようとしてんだ。だからその子が手を汚す羽目になってんじゃねーか。お前は何もわかってない」
 ティルがのろのろと顔を上げ、レミィの方を一瞥する。その覇気のまるでない顔に、ライゼスは嘆息した。
「……どちらにせよ、今回のことは全て陛下に報告します。レミィ、貴方のことも」
 レミィの体が僅かに震えた。それが視界に入って、ティルはよろめきながらも立ち上がった。
「お前……ッ」
 激しい眩暈に倒れそうになりながらも、焦点の合わない目をどうにかライゼスへと向ける。
「そんなことをすれば元老院の存在が根底から覆りかねない。今院が潰れれば、これだけの大国の全てが陛下の肩にかかるんだぞ……? そもそもその子はお前の為に、」
「だからと言って、僕に虚偽の報告をしろとでも?」
「……ライゼス!」
 爪先に何かが当たり、ライゼスは屈むとそれを拾い上げた。直後、ティルに胸倉を掴まれて引きずりあげられる。先刻とは逆の態勢になり、ライゼスは冷めた目でティルを見た。
「お前はオレをわかってない。父も国も元老院もどうでもいい。セラを守れればそれでいいんだ」
 ライゼスが、拾った刀の刃をティルの首筋に当てる。首に冷たい感触を感じてティルは深々と息を吐き出した。
「二重人格はどっちだよ。……お前も馬鹿だ。それこそセラが一番望まないことだろ……」
「うるさい……!!」
 普段は穏やかな紫の瞳が、火を噴き零しそうに睨みつけてくる。だがそれだけで、ティルが無抵抗なのにも関わらず、刀は皮一枚も裂きはしない。しばし膠着が続いたが、やがてティルは素手で刃を握り締めた。ライゼスが一瞬怯んで、ティルはその隙をつくと刀を奪い返した。
 ライゼスが糸の切れた人形のように崩れ落ち、ティルが片手でその腕を取って支える。
「離せ……!」 
 荒い息をつきながらライゼスが呻く。だが手を振り払わないところを見ると消耗しているようだった。その間に、沈黙を守っていたレミィが立ち上がる。
「……今回のことはわたしの独断でやったこと。エルベールの名を返上して裁きを受けます」
「そんなことをしても……僕は追及をやめませんよ。いつか必ず元老院は僕の手で潰します」
「はい。どうぞ、ライゼス様の御心のままに」
 立ち上がり、レミィが部屋を出て行く。その瞳には憂いも哀しみもなく、ただ愛しい人を移して穏やかに微笑んでいた。通りすがりにそれが見えて、ティルがぽつりと呟く。
「……追いかけた方がいい。あの子多分死ぬつもりだ」
 ようやく、ライゼスが自力で立ち上がる。まだ息は荒いが、目つきも足元もしっかりしている。
「なぜそんなことが?」
「わかるよ。俺と同じような目をしてる」
「……なら、貴方を置いてはいけません」
「俺が行く場でもねーだろ……何も言えなかったんだろ? それくらいけじめつけろよ。大体、ちょっと動けねぇ」
 言うなり、ティルは座り込んだ。それでも動こうとしないライゼスを見上げ、そして、再び俯く。少しの静寂の後に、ティルは言葉を継いだ。
「二人でセラを守っていく――だっけ? そうしてもいい」
「……ティル」
 それはおよそ、彼から出るとは思わなかった言葉であり――心底驚いて思わずライゼスが名を呼ぶと、同じくらい驚いた顔をしたティルの碧眼と目があった。
「な……なんだよ。急に呼ぶんじゃねーよ気持ち悪ぃな」
 別に初めて名を呼ぶわけではないのだが、そういえば本人の前で呼んだのは初めてかもしれない。
「なら貴方も気安く呼ばないで下さいよ」
「呼んでねーじゃねーか、ボーヤとしか」
「さっき呼びましたよ。自分が言ったことも覚えてないんですか?」
「呼んでない」
「呼んだ」
 暫く睨み合った後で、そんな場合でもないことを思い出して互いに息を吐き出す。
「……安心して下さい。もし貴方が本当にセラを傷つけるだけの存在になれば……そのときは、僕が必ず貴方を殺しますから」
 リラの花のような紫と、空を映した青が交錯する。クッ、とティルは喉を鳴らした。
 そのとき、ライゼスは理解した。セラが、ティルが本当には笑っていないと言った、言葉の意味を。
「じゃあ、そのときまでは生きてる。……だから、早く追ってやれよ」
「……勝手に死んだら殺しますからね」
 それだけ言い残し、ライゼスがやっと、踵を返す。
「意味わかんねーよ、馬鹿」
 吐き捨てて、ティルは刀へと視線を落とした。
 約束を守る義理などないが――
「オッサンと心中する義理はもっとねぇな……」
 独白して、刀を振り上げる。テーブルの上にあるボトルとグラスが、ガシャンを派手な音を立てた。警備兵の足音を背中に聞きながら窓枠を乗り越える。あとはきっちり撒いておけば、ライゼスとレミィの二人に多少の時間は作れるだろう。