ティルの選択 2


 静かな夜――だと思っていた。今だって、なんの音も気配もエラルドには感じられない。だが緊迫したセラの様子に、慌てて言われるがままティル達を起こしに走る。幌を上げたところで、ぱっちりとした蒼の双眸と視線がかち合った。ぶつかりかけて怯んだエラルドに、ティルは詰め寄った。
「セリエス様に余計なこと言いましたわね? エド」
 凄まじい形相で責め立てられて、エラルドは、う、と後ずさった。だがすぐに緊急時だということを思い出す。
「それどころじゃないよ、ティア。セリエスが」
「それどころですわ。森から変な気配がするから目覚めてみれば……」
「あ、ティアも気付いてたの」
 へら、とエラルドが笑って誤魔化す。
「笑っている場合ではないですわよ、エド。団体様ですわ」
 自分が話をすりかえたことは棚に上げ、ティル。確かに笑えない事態であることを悟って、エラルドは表情に緊張を走らせた。
「……とにかく、ティアはセディとラスを起こして、状況を説明して。それで、馬車の中でじっとしてるんだ」
「いえ、わたくしも行きます!」
 叫んだのは、セラが心配だというのが本音だった。近くに、大勢の人の気配がする。その団体の目的は今のところわからないが、仲良くできないだろうことは想像に難くない。肌を刺すような殺気と一人外にいるセラが気になって、一瞬ティルの意識は完全に外に向いた。それが間違いだった。もっと近くの殺気に気付けなかった。
(しまっ……)
 気付いたときには、避けるのは勿論、急所を庇うにも遅いと脳が結論を出していた。そんなことを考える暇があるのに、身体を動かせないことが酷くもどかしいが、結局できた行動といえば歯をくいしばることぐらいだった。だが。
 目に映った短刀が自分を抉る前に、視界が回転する。
 全く予測してなかった衝撃を受けて、ティルは、自分にぶつかってきた『何か』ごと、馬車の外まで吹っ飛んだ。
「ティア!」
「ラス!?」
 その後を追って、エラルドも慌てて馬車を飛び出し、外にいたセラが、事態を飲み込めず驚いた声を上げる。そしてティルは、その二人に聞こえないような小声で毒づいた。
「いってぇーな。早くどけよ、男に近づかれたくねぇって言ってるだろ?」
「だから僕だって近づきたくないですよ。ただ非常に不本意ですが、貴方の護衛が任務なもので。それと、それが命の恩人に対する態度ですか?」
 火花を散らしながらライゼスとティルが立ち上がり、共に汚れた衣服をパンパンと払う。
「ちっ、ボーヤに借り作っちまった」
 駆け寄ってくるセラとエラルドを見ながら、ティルは苦笑した。
「姫、一体何が……」
 セラの疑問に、ティルは簡単に答えた。
「外に気を取られすぎました。敵はもっと傍にいたのですわ」
 答えているのに、ティルはこちらを見ていない。それを訝って、セラはティルの視線の先を追った。その先には馬車。そしてその荷台から、セデルスがゆっくりと降りてくる。その手に握られた短刀が、焚き火の明かりを受けて妖しく輝いていた。
外にいたセラはなかなか事態が飲み込めなかったのだが、セデルスが刃物を手にして現れたこと、その尋常でない様子に、剣を抜いてティルの前に進み出た。
「私に構っていていいのかな、騎士よ。森にいる私の仲間は、もう動き出しているよ」
 手の中で短刀を遊ばせながら、セデルスが愉しげに笑う。だがセラは彼から目を逸らさなかった。森に潜む襲撃者たちとはまだ距離がある。彼らがどんな達人であったとしても、一瞬でこちらに対して危害を加えるのは無理だ。彼らを気にしてセデルスの動向を見逃しては、彼の思う壷である。
「森に向けて、ドカンと一発できねーの?」
 ピリピリとした空気の中、ティルがすぐ隣にいたライゼスにひそりと問う。期待に満ちた声に、ライゼスは陰鬱な気分になった。セラの方を見たまま、淡々と一言だけ言い放つ。
「できません」
「なんでだよ」
「夜だからです。夜は闇の精霊の縄張りです。光の魔法を使うのは難しいんですよ」
 不服気なティルに、ライゼスも苛立ちを隠さない。
「でも、こないだ宿で襲撃されたとき明かりを出してたじゃないか」
「だから、あのくらいが限度なんです!」
 空気が動いたのを感じ、二人は会話を止めた。ゆっくりと――セデルスがこちらに向けて歩を進めていた。炎に照らされるセデルスの容貌は、狂気じみて見える。
 セラが剣を構え直す。そのセラとセデルスの対立を、エラルドの叫びが割った。
「どうしてだ、セディ! 一緒にティアを助けに行こうって言ったじゃないか!」
「どうしてだと? お前はティルフィアがこの国の王になって、それで良いとでも言うのか? 父上を見て、この国の行く末を憂いたことがないのか? だとしたら余程の阿呆だな」
「ないわけじゃない! でもティアの命を狙う理由にはならない!」
「綺麗事を吐くな!」
 エラルドの悲痛な声は、セデルスには届かなかった。激昂と共に、短刀を構えてセデルスが走る。素人の動きではないが、セラにとって恐れるほどの腕ではない。難なくセラの剣がその刃を受け止めた、その刹那。
『大地よ、その怒りを我が前に示せ!』
 背後で唐突に声が上がり、そしてそれに呼応するようにグラリとセラの足元が揺れる。
 予期せぬ出来事に、セラの体勢が崩れる。ライゼスとティルが青ざめるが、その二人が飛び出してくる前に、セラは咄嗟にセデルスの短刀を渾身の力で弾くと、体勢を崩したまま反動で逆側に倒れた。受け身を取り、すぐに体勢を立て直す。それによってセデルスとの間に距離ができる。その頃には、ライゼスも行動を切り替えて、声が聞こえた方に向けて呪文を詠んでいた。
『光よ、我が前に集いてその姿を示せ!』
 ライゼスの呪文に応じて、淡い光が術者の姿を映し出す。
「ティリオル……兄様?」
 ティルが少なからず驚きを含んだ声を上げる。
 第五王子、ティリオル。彼は病弱で、今までほとんど人前に姿を見せたことはない。今更兄弟の誰が敵でも驚かないが、彼のことは意識になかった。
 ライゼスの出した光にさほどの光量はなかったが、それでも暗闇に慣れている目には眩しく感じる。呻いて両目を覆ったその術者の方を見て、セデルスは舌打ちした。
「ティオ兄まで……! ディルフ兄上、ティオ兄、それにセディ……兄弟の中で三人もが、吊るんで妹の命を狙ってたっていうのか!」
「そこにディルフレッドを並べないで欲しいな。私はあんな馬鹿と吊るんだ覚えはない!」
 その悲壮な叫びさえセデルスは一蹴した。それと同時に、すっと表情から笑みを消す。
「ティリオルと一緒にされるのも不愉快だ。どいつもこいつも王に相応しくはない! 私が、私こそが王に相応しいというのに! 誰も私など見向きもしない! 九番目の王子など、いつもないも同然だった。なのにどうだ! 父上は十番目のティルフィアに王位を譲ると言う。これが笑わずにいられるか? 私こそが最もどうでも良い存在になったこの瞬間を!!」
 セデルスの悲壮な叫び声が、黒い空にむなしく響く。だがそれはひとまず無視して、ティルはティリオルの方を向いた。
「ティリオル兄様、組む相手を間違えたんじゃありませんの?」
「……別に、セデルスが何を思っていようが私には関係ないことだ」
 揶揄すると、ティリオルはか細い声を上げた。
「だがセデルスの言うことは解らなくもないさ。私には王位争いなど関係ない。ずっとどうでも良い存在だった。そんな存在にとって、貴様は目障りなんだ、ティルフィア。お前だけが いつも取り立てられる。姫に産まれたというだけで、なんと多くのものを手に入れたものよ」
「――ふざけるなッ!!」
 ありったけの怨嗟と羨望をその顔と声に宿したティリオルに、声を上げたのはティルではなかった。よく通るセラの声に、瞬間的に水を打ったような静寂が訪れる。それを破ったのもまた、セラ自身だった。
「それをティルが望んで手に入れたとでも思っているのか! 己の産まれを忌み、人を妬み羨み、己の不幸を他人の所為にすることでしか自己を守れぬ貴方がたこそ、王に相応しくない!」