ティルの選択 1


 人里離れた場所での夜は暗い。月も星も出ていなければ尚である。
 明日は雨かもしれないな、とぼんやりと考えながら、セラはぱちぱちと焚き木のはぜる音を聞いていた。
 休憩の後、一行はさらに北へ向けて馬車を走らせていた。だが森の手前で日が暮れてしまい、やむを得ず野営することにしたのである。ティルの居場所が敵に知られている以上いつ襲われるかわかったものではないので、セラとライゼスは交代で見張りをしていた。丁度今しがたライゼスと交代したところであるが、夜はまだ長い。セラは剣を抱きかかえるようにしてその上から毛布を羽織り、荷馬車に寄りかかって目を伏せていた。できるだけ体は休ませておきたい。
 静かな夜。聞こえてくるのは、近くを流れる小川のせせらぎ。森の木を風が撫でる音。その、風の音。
 ――ふと、セラは目を開けた。その、自然が奏でる音の中に、異質なものが混じったからである。油断なく周囲に気を配りながら、鞘からほんの少し、剣を浮かす。剣の刃と鞘が擦れて、微かな音が鳴る。
「しー、オレだよセリエス。驚かしてごめん」
 闇の向こうから声がしたのはそのときだった。抜きかけた剣を収める。声の方に目を向けると、荷台からエラルドが降りてきたところだった。
「エラルド王子。どうされたのですか?」
 疲れているだろうに、と思いセラが声をかける。王族にこんな逃走劇が慣れているものだとは思えなかった。だが何でもないようにエラルドは元気に答えてくる。
「ちょっと目が覚めたから」
「ああ……、そうですね、荷台ではお休みになりにくいでしょう」
 普通の王子は野営などしない。いつもベッドで寝ている者にとっては背が痛くてよく眠れないだろうとセラは思ったのだが、エラルドは首を横に振った。
「いや、別に。セデルスはどうか知らないけど、俺はこういうの嫌いじゃないからさ。別に荷台で寝たのも初めてじゃないし?」
 そう言って笑うエラルドに、セラは親近感を覚えた。セラも王族だが、野宿に抵抗はない。城に部屋があるのに、わざわざ騎士宿舎で休むこともそう珍しくない。むしろ城の中で王女として生活し、ふかふかのベッドで眠る方が疲れるくらいだ。だがこの場合、同意するのもおかしいので、そうですか、とだけ答えておく。王女ということを知られてはいけない以上、気があいそうだと話を弾ませるわけにもいかないだろう。
「ていうかホントに俺のことはエドでいいよ。セデルスはさ、頭固いんだ。悪いやつじゃないんだけどな」
「はあ、でも……」
 気にしなくて良いと言われても、気になる。エラルドの言葉に甘えればまた昼間のような険悪な空気に見舞われるだろう。セラが言葉を濁すと、エラルドは寂しげに笑った。
「って、やっぱり気になるよな。まあ、いいや呼び方なんてなんでも」
 エラルドの笑顔が寂しい理由が、セラには痛いほどわかる。わかるから、複雑だった。
(こんなところで、ラスの気持ちが解るなんて、な)
 王族として接して欲しくない。それを互いに了承していたとしても、周囲が許してくれないときがある。誰だって、自分の立場や保身を考える。咎められたら、相手が望んでいたからでは済まないからだ。 それでもライゼスは、精一杯向き合おうとしてくれる。城では姫と呼んでいても、ただの王女ではなく、セラという人間を見てくれている。わかっていたつもりなのに、それがどこかで当たり前になっていたかもしれない。
「セリエス? どうかした?」
「あ、いえ。何でもありません」
 知らず考え込んでいたらしい。心配そうなエラルドの声でセラは我に返った。
「そっか。話がずれちゃったね。起きてきたのはセリエスと話がしたかったんだ」
「私と……ですか?」
 理由が思い当たらず怪訝な顔をするセラに、エラルドは頷いて先を続ける。
「ティアのことだけど」
 もしかしてティルの秘密に触れることではないか――とセラは少し焦ったが、彼が口にしたのは完全に予想外のことだった。
「うん。その、オレがこんなこと言うのも野暮なんだけどな。アイツ、セリエスのこと好きなんじゃないかと思うんだ」  思いがけないことを言われて、ぽかんとするセラに構わず、エラルドが続ける。
「ティアも年頃なのに、ぜんぜん男に興味がなくて、オレ一応兄として心配してたんだよね。だからちょっとほっとしたというか」
 だがそれを聞いて、ああ、とセラは納得がいった。ティルが男に興味がないのは当たり前である。本人が男なのだから。しかしそれを言うわけにもいかない。
 セラがなんと答えたものか悩んでいる間に、エラルドは一人で話を進めてしまう。
「セリエスの前ではどうか知らないけどさ、あいつちょっと捻くれたとこあるんだよね。でもそれも仕方なくてさ。父上がおかしくなったのはティアのせいだって、殺されかかったのも 一度や二度じゃないんだ。なのにあいつ、なんの文句も言わなくて……オレ、あいつが不憫で」
 憐憫のこもったエラルドの言葉を聞き、ティルの苦労を思って苦味をかみしめる反面で、セラはどこかほっとしていた。
「……少し、ほっとしました」
「え?」
 それをそのまま言葉に出したセラに、その真意を測りかねてエラルドが訝しむ。だが、
「ティルフィア姫にも、貴方のように本気で心配してくれる人がいるとわかりましたから」
 セラの言葉を聞いて、すぐに破顔した。
「セリエス。ティアのこと、宜しく頼むよ。君なら安心して任せられる」
「はい」
 エラルドが、どういう意味で任せると言っているかなど気付きもせず、セラが大真面目に返事をする。エラルドはエラルドで、当然通じているものだと疑いもせずに立ち上がった。
「よし、じゃあ寝よ――」
「――しっ」
 伸びをしようとしたエラルドを、セラは鋭く制止した。
 森の向こうに気配を感じる。それも一つや二つではない。それどころか、五つや六つというレベルでもない。
「エラルド王子。ティルフィア姫達を起こして下さい。早く!」
「わ、わかった」
 只ならぬセラの様子に、エラルドは急ぎ馬車へと向かった。

■ □ ■ □ ■
 
 闇色の髪と目をした青年は、騒がしさに書物から顔を上げた。
 扉を押し開けて外に出ると、丁度良く、目の前をラディアスが歩き去っていった。随分と早足である。
「騒がしいようだけど、どうかしたのかな、ラディアス」
 自分も早足で彼の隣に並びつつ、レイオスが問いかける。ラディアスは、前を見たままで答えた。
「エラルドとセデルスが、ここ数日戻っていないようです。他にも姿が見えない者がちらほら」
「兄上か?」
「いえ、長兄殿は城におられます」
「ほう」
 問答の間にも、ラディアスはスタスタと進んで行く。その道順で、レイオスにも目的地の想像がついた。
「兄弟うちの誰かが数日帰らないからといって、珍しいことでもなかろう?」
「時期と面子が問題です。そして何より問題なのは、陛下までいなくなりそうです」
「なんだと?」
 聞き捨てならないラディアスの言葉に、レイオスは柳眉を潜めた。それで王の部屋に向かっているのかと合点するが、何故いなくなるのかがわからない。
「どういうことだ?」
 疑問をそのままぶつけてみると、ラディアスは足を止めぬまま、小さく肩を竦めてみせた。そんなリアクションは彼にしては珍しい。よほど投げ遣りになっているのが窺える。
「父上が、ティルフィアの後を追うと言って聞かぬのです」
「成る程な」
 くくっとレイオスが笑う。ラディアスが投げ遣りにもなるわけである。最早父は、王としての自覚も責任も忘れたようだ。笑うレイオスに、ラディアスは不快感をあからさまにした。
「笑い事ではありますまい」
「いや、逆に笑うしかないと思うが。それで父上はもう出てしまわれたのか?」
「いえ、まだです。さすがにお独りでの外出は危険なので、急ぎ護衛隊を編成しているところです」
「ふむ、騒がしいのはその為か」
未だ早足でラディアスの隣を歩きつつ、レイオスは思考をめぐらせた。