1.


 早朝、執務室の前でライゼスは懐中時計を睨んでいた。
「遅い……」
 ついに耐えきれず零した彼に、ティルは壁にもたれながら苦笑した。
「時計に当たっても、どうなるもんでもないだろうに」
「貴方が全快すれば、遠慮なく貴方に八つ当たりしますよ」
 皮肉に皮肉を返されて、ティルは肩をすくめた。それ以上は言い返してこなかった彼の、顔色はいつにも増して悪い。ライゼスは時計を仕舞うと嘆息した。
「陛下をお待たせするわけにもいきません。行きましょう」
 ライゼスが扉に手を掛けたとき、カツカツと足音が聞こえた。セラならバタバタ走ってくるはずだ。かといって早朝の執務室に誰が来るのかとライゼスが顔をしかめたとき、回廊の向こうからセラが姿を現した。
 だが、そのいでたちはいつもの軽装ではない。ごく簡素なものではあるが、白いドレスと足元にはヒール、帯剣はしていない。
「済まない。遅れた」
「その恰好……」
 時間に遅れた小言も忘れて、ライゼスが呻く。その様子に、セラは腰に手を当てた。
「何だよ。日頃から慣れておけとうるさく言ったのはお前だろ」
「……そう、ですけど。それで時間を守れないのでは本末転倒でしょう」
「それはそうなんだが、リズが酷い熱で。本人は大丈夫だと言うが家に帰した。それで少しバタバタしてしまってな」
「リズが――?」
 結局小言になりかけた言葉を飲み込んで、ライゼスは眉をひそめた。
「それは……失礼しました。とにかく、行きましょうか。もう時間を一分すぎてます」
 一分くらい、というのは言わない方がいいのだろう。黙って頷きかけたが、別のことが気になって口を開いた。
「ティル、顔色が悪いが大丈夫か?」
「……低血圧なの。気にしないで」
 ライゼスが扉を叩く、その音が終わる前にティルは短く答えた。合わない視線にセラが二の句を継ごうとした時には扉が開いて、仕方なくその視線を部屋に向ける。そして――セラは顔を引きつらせた。
「は……母上?」
 ライゼスもまた引きつった声を上げる。その視線の先には、ウエーブのかかった髪をひとまとめにした、ライゼスと同じ紫色の瞳の女性がいた。
「遅い」
 彼女が一言ピシャリと呟くと、電流が走ったかのようにセラとライゼスが凍り付く。その様子でティルもなんとなく委細を察して、直立不動の姿勢を取った。
 話には聞いたことがある。ライゼスの母親は元親衛隊隊長であり、今は国王の相談役であると。今は一線を退いたが、かつてはランドエバーの死神と呼ばれるほどの剣の使い手であり、国王も頭が上がらないと。
 その彼女の横で、アルフェスがなんとも言えない顔で座っており、さらにその傍で彼の妃であるミルディンが一人だけ柔らかに笑っていた。
「まあ、セラ。式典でもないのに貴方がドレスを着てくれるなんて、初めてじゃない?」
「は、はい……」
「ね、エレン。それに免じて今日は許してあげて」
「……まぁ、姫様の場合いつもがおかしすぎるというのはありますが……」
 エレフォに進言できるもは王妃であるミルディンくらいのものである。自他共に厳しいエレフォも彼女にだけは甘い。だがそれでもエレフォの声は渋い。
「母上、姫様が遅れたのは世話係であるリーゼアの体調不良の為です。責めを負うべきは彼女ですが、この場は兄である私が」
「その理屈でいけば、母である私も責を負わねばならなくなるな」
「有体に申し上げるならそういうことです」
 バチリと二人の間に火花が弾ける。その空気を感じ取って、アルフェスが助け舟を出すように声を上げた。
「その辺で、エレン。それに君はティルと初対面じゃなかったか?」
「これは――失礼しました、殿下。エレフォ・レゼクトラと申します」
 唐突に視線を向けられて多分に焦りつつも、表面上はそれを隠してティルが頭を下げる。
「いえ、私の方こそご挨拶が遅れて失礼いたしました。リルドシア第七王子、ティル・アーシェント・リルドシアでございます。お初にお目に掛かります」
「先の公務の折には姫と息子の不始末により殿下に深手を負わせてしまい、面目次第もございません」
「え――いえ、あれは私の不注意です。決して姫様方の所為では」
 エレフォに頭を下げられ、ティルがたじろぐ。一体どういう報告をしたのかとライゼスに視線を送るが、彼は目を逸らした。
「息子の報告を聞く限り姫の不注意のようでした。大体姫を止められなかったライゼス、お前が悪い」
 再びエレフォの厳しい声がライゼスを撃つ。今度は彼は何も言い返しはしなかったが、代わりにセラが声を上げた。
「いや、今回のことは全て私が悪かった。ラスを責めないでくれ」
「反省なさっているのは結構ですが、事が事です。息子だけならまだしも、殿下までも巻き込んで、何かあればどうされるおつもりだったのか?」
「それは……」
 セラがぐっと言葉に詰まる。その二人の間をティルの声が縫った。
「どうかそのぐらいで。この命姫様の為に使えるなら私はそれで――」
「ふざけるな!!」
 しん、と場が水を打ったように静まり返る。
 険しい声を上げたのは、今まで萎縮していたセラだった。
「そんなことの為に引き止めたわけじゃない。二度と言うな」
「…………」
 ミルディンが顔をしかめるほどセラの声は固かったが、ティルはとくに表情を動かさなかった。エレフォとアルフェスが少し怪訝な顔をする。ライゼスが声をあげかけて、だが場を動かしたのはその誰でもなかった。
「わーるい悪い。遅れた遅れた〜」
 ノックもせずに扉が開き、騎士団長ヒューバートが姿を現す。ピキ、とライゼスとエレフォの両方のこめかみに、同時に青筋が立った。
「いやぁ、うっかり忘れてて遅刻しちゃったよ。ん、どったの?」
 ヒューバートの軽い声を、エレフォの睨みが黙らせる。同じく睨みたくなる衝動を堪えて、ライゼスは声を上げた。父の言動には呆れかえるものの、今この場に限っては怒りよりもほっとした思いが勝っていた。
「……陛下、今日は公務のお話とお聞きしましたが」
「あ、そうだね。その前に、先の公務ではありがとう。おかげでこの通り、ミラも大事なく」
「ごめんね、元はといえばわたしのせいなのだから、みんなは気にしないでね。ティルも、怪我はもう大丈夫?」
「は……はい」
 ミルディンに顔を覗き込まれ、ティルは毒気を抜かれたように答えた。
「良かった。でも無理をしてはだめよ?」
「それについては、ご心配には及びません。周りが無理をさせてくれませんので」
 ふっとティルが苦笑し、ミルディンは一瞬きょとんとしたが、すぐにふわりと微笑んだ。ピリピリした場がミルディンの一声で和んでゆく。それに目を細めて、アルフェスは口を開いた。
「さて、次の公務の件なのだが……せっかくドレスを着る気になったお前に言うのは少し気が引けるな」
「……?」
「十日後、レアノルトで大規模な剣術大会が開催される。それに参加して欲しい」
 その言葉が浸透するのに少しの時間がかかり、三人が押し黙る。やがて、セラが目を丸くする。
「剣術――」
「――大会?」
 その横で、ライゼスは思い切り顔をしかめたのだった。