9.


 体が熱を忘れてくれない。加速した鼓動がおさまらない。鮮烈な金と翠が視界から剥がれない。
 逃れるために眠りに縋りたかったのに、人の気配を感じてティルは碧眼を開いた。その主がセラでないことにはほっとするが、少しでも眠れればそれだけ思考を手放せたのにと思うと、苛立ちが過ぎる。だがそんなものはどうということのない感情だ。
「なんの用だよ」
 扉が開く音を聞いて、ティルは一言吐き捨てた。相手はそんなこちらの態度に構わず、いつもと同じ淡々とした声を上げる。
「ご挨拶ですね。こっちは貴方のせいで、穏やかな一日がそこそこ台無しなんですけど」
「いつものことじゃねーか」
 起き上がらず、顔も上げず、悪びれずに述べるティルに、ライゼスはいつものように言い返そうとした。しかし今日に限って買い言葉の一つも思いつかない。諦めて彼は要件のみを口にした。
「貴方の退院許可を取ってきました」
「……なんでまた」
 短く帰す言葉は怪訝な響きを含んでいる。一拍おいて、ライゼスが答える。
「近くまた公務があるようです。病院で留守番してるなら、僕はそれでも構いませんけど」
「構わねーならほっとけばいいだろ」
「どうせ貴方は黙って抜け出すし、セラは貴方の見舞いと称して町で遊ぶし、僕の心が休まらないんですよ。それに、貴方の入院費と身元保証はレゼクトラ家が請け負っています。貴方に使うほど、うちも金が余ってるわけじゃないので」
「なんでだよ? いくらリルドシアが俺を邪険にしてても入院費くらい出すだろ。レイオスにでも請求しといてくれ」
「セラを庇った怪我でそんなことできるわけないでしょう。かといって王家が介入すればこんなとこで静かに休んでられないと思いますけど。それとも王族待遇がご希望でしたか?」
「……いや。…………済まん」
 謝罪が返ってくるとは思わず、ライゼスは手にした書類を落としかけた。
「何謝ってるんですか、気持ち悪いですね」
「……」
 ティルがジト目でこちらを見てくる。ようやく目があって、ライゼスはふと笑った。
「酷い顔してますね。世界中で騒がれた美姫とは思えませんよ」
「そりゃ嬉しいね。お前も相当酷い顔してるけどな」
 互いに酷い顔をしている自覚はあった。そうさせているのはどちらもセラだと互いに知る術はないのに、わかってしまう。それは口に出さず、ライゼスはコホンと咳払いをして話を戻した。
「言っても無駄でしょうが、退院しても大人しくして下さいよ」
「無駄だと思うなら言うなよ」
「セラみたいなこと言わないで下さい。自分で薄々わかっているでしょうけど――」
 半眼になりながら、ライゼスは書類に目を落とす。カルテと、退院手続きの書類が幾つか。
「リルドシアの内乱でも貴方は致命傷を負って、僕が治癒しました。これで二度目。どちらも死んでておかしくない怪我です。それに、他にもろくに治療してない傷があるでしょう」
「……仕方ないだろ。ちょっと前まで連日暗殺者と遊んでたんだ」
「人につけられた傷とそうでない傷の違いはわかるものですよ。多少医療をかじっていればね」
「だから、なんだよ!?」
 ティルが声を荒げて睨みつけてくる。喧嘩は日常茶飯事と言えど、彼がこれほど感情を剥き出しにして噛みついてくることは珍しい。それもそのはずで、触れられたくないことなのは承知の上でライゼスも口にしている。
「内乱のとき言ったこと覚えてますか? 貴方も特異魔力の持ち主です。古い王家の血筋はそういう力を持っていることが多いのですが……端的に言えば、貴方は簡単には死ねません」
 国を興し、戦乱の時代を越えて今に残るということは即ち力があるということだ。そして力は高確率で遺伝する。無論全てがそうではないが、ティルの生命力はやや異常だと言える。一度ならともかく二度ライゼスはそれを目の当たりにしているし、彼の生い立ちや性格を考えればその二度だけでもないのだろう。
 だがいくら力があれど不死身なわけはない。
「だから無駄なことはやめて養生するんですね。それでも聞けないなら今の話、セラにします」
「勘弁してくれよ……お前ってほんっと嫌なヤツ……」
 睨むのをやめると、ティルは疲れたように言葉を吐き出した。別にいい人だと思われたくもないし、ライゼスは自分のことをどちらかといえば冷たい人間だと思っている。今だって本当に言わなければならないことは違う。
 ライゼスの扱う魔法は、現代にしては強力だというだけで、過去使われてきたそれとは比にならない。回復魔法を用いて傷を治したとしても無かったことにはできないし、体には必ず負担がかかる。今回の入院が長引いたのは遺跡の怪我だけが原因ではないだろう。
 しかし自分がそれを告げたところで言うことを聞くような相手ではないから、半ば脅して言うことを聞かせる。とはいえ所詮は脅しだ。セラに言えば今度はセラが傷つくことになる。
 解決にはならないが、しばらくはこれで繋げる。
(僕はこんなことばかりしている……)
 だがこれが最善だ。いつも考えてそう思える行動を取ってきた。――だからこそ、嫌気が差す。
「お前は、俺がいない方がいいだろ……」
「お互い様でしょう。その上で……」
 考え抜いて、最善だと思った答えが口にある。考えなくてもそれしか答えがないこともわかっている。いつものように実行すればいいだけだ。
「……二人でセラを守って行くことはできませんか……」
 掠れた声が静かな病室に零れる。
 視線を感じてもライゼスは顔を上げなかった。
「そんなすげー嫌そうに言うくらいなら、言わなきゃいいじゃねーか」
「こんな屈辱ありませんよ。でも他に答えが出せませんでした。ならそれが……最善です」
「らしくねーな、最悪だよ」
 一言で切り捨てられて、ライゼスが眉根を寄せる。
「らしくないのはそっちじゃないですか。正々堂々決着つけるんじゃなかったんですか? 傷つけてでも僕からセラを奪うんじゃなかったんですか!」
「一体いつの話してんだよ……。決着なんて最初からついてた。あのときはそれに気づいてなかっただけだ」
「逃げるんですね。なら僕もそうしますよ。僕が王都を出ればいいんでしょう」
「は? 最悪にも程があるぞ。頭でも打ったのか?」
「僕は真面目に話してるんですが!?」
「……俺だって真剣に話してんだけどな」
 ライゼスの激高を受けて、ティルは視線を落とすと可笑しそうに口を歪めた。
「そうじゃないだろ。ボーヤは俺に、とっとと国に帰れって言っときゃいいんだよ。じゃなきゃつまんねーよ」
「……」
 苛立ちとも困惑ともつかぬ声に、ライゼスが顔を上げる。
 視線の先で、ティルは半身を起こし、だがこちらを見てはいなかった。反対側にある窓の外の、晴れた空へと彼の声は吸い込まれて行く。
「……そうですね。つまらないことを言いました」
「わかったら帰れよ。お前がいると空気が不味くなる」
 こちらを見ないまま片手で払われ、ライゼスは踵を返すと扉に手をかけた。
「――最善とは思えないが、当分は俺もそうするさ。だけど」
「いつか破綻するのは僕にもわかってます。多分セラにもね」
 それだけ答え、ライゼスは病室を出た。
 その頃には、あのとき遺跡で力を手にして、破綻する前に世界を壊した方が良かったかもしれないと、真剣に考え始めていた。