2.



「お兄様、少し熱が上がったんじゃありませんか?」
 翌朝。リーゼアは兄の額に手を当て心配そうな声を上げた。
「大したことありませんよ。それよりリズ、仕事は?」
「今日は遅番ですので」
「そうでしたか。なら今朝食を作りますね」
 ライゼスはベッドから体を起こした。リーゼアは大体騎士宿舎の食堂で食事を済ませているが、家にいるならライゼスが作らない限りは食事の手段がない。
 しかしリーゼアは慌てて首を横に振った。
「い、いえ! お兄様は休んでいてください。食事ならわたしが……」
「……リズ。覚えているでしょう? 幼い頃より、僕は剣を持つことを、リズはキッチンに立つことを、母上から固く禁じられていたはずです」
 ガッとリーゼアの両肩に手をおいて、ライゼスはキッチンへ向かおうとする彼女の足を止めた。
「し、しかし。お兄様は克服しつつあるのです。わたしもそろそろ」
「無理をしなくていいんです、リズ。僕なら大丈夫ですから。本当に。たった一人の兄弟なんです。頼ったり甘えたりして構わないんですよ」
「お、お兄様……」
 真剣にこちらを見つめてくるライラックの瞳に、リーゼアは少し頬を赤くした。だが、すぐにジト目になる。
「肩が痛いです。そんなにリズの料理は嫌ですか」
「正直遠慮したいです」
 兄妹の間に冷めた一陣の風が吹いたとき。
 玄関から鐘の音が聞こえた。
「……お客様かしら? リズが出てきますね」
 そそくさとリーゼアが部屋を出ていく。彼女が食事を作る流れを阻止されてほっとしつつも、ライゼスは首を捻った。早朝というほど早い時間でもないが、朝から来客など珍しいことではある。
 誰だろうと考えながらベッドを降りブーツに足を突っ込むと、リーゼアの足音が近づいてきた。
「お兄様にお客様です。エルベール家の、レミィ・エルベール様」
「はああああ!!?」
 素っ頓狂な声を上げて、ライゼスは固まった。リーゼアが驚いて、目をパチパチと瞬かせる。
「お、お兄様?」
 が、リーゼアの声を受けて慌ててライゼスは身支度を整えようとクローゼットを開いた。そして、締める。
「……彼女一人ですか?」
「ええ。従者もおられません」
「わかりました。今行きます。朝食は少し待って下さい」
 マントを羽織ると、ライゼスは玄関へ向かった。

 レミィ・エルベール。エルベール家の三女である。普段は王都におらず、レアノルトで講師をしている。
 ライゼスは彼女と面識があった。昨夜父はエルベールからの縁談について相手の名前すら口にしていなかったが、なんとなく想像はついていた。上二人のレミィの姉は既に結婚しているし、あと一人エルベール家には娘がいるが彼女は自分の相手としては少し幼い。可能性がないわけではないが、普通に考えればレミィの方が自然であるだろう。レミィ・エルベールは今年十八だ。
 レミィは幼い頃から賢く、ライゼスも驚くほど博識で、少しだが魔法も使える。時折レアノルトに講義に行くライゼスの、助手のような存在でもある。
「あ……ライゼス様。ご無沙汰しております」
 こちらの姿を見るや否や、レミィは深々と頭を下げた。二つに結った金色のおさげも一緒に垂れる。さらに一緒に落ちそうになった眼鏡を、彼女は慌てて押さえた。
「こちらこそ。すみません、少し体調が優れなくて、こんな格好で」
「い、いえ。こちらこそ朝から急におしかけてしまって。具合が悪いことは聞いていました。朝食はもう召し上がられましたか?」
「いえ、まだですが……」
「よかった。大したものじゃないんですが作ってきましたので、良かったら。もちろんリーゼア様もご一緒に」
 バスケットを差し出して、レミィはにこっと笑った。

「ありがとうございます。本当に助かりました」
「とんでもありません。ご迷惑じゃないかと心配していたので、そう言ってもらえると嬉しいです」
 少し焦げ跡のついたダイニングで食事を終え、ライゼスはレミィと自室にいた。応接室に通そうとしたのだが、レミィが体を気遣ったために言葉に甘えて横になっている。
 レミィが持ってきた食事はサンドイッチやサラダ、スープといった簡単なものではあったがいずれも美味で、人に食事を作ってもらうなどという経験のほとんどないライゼスにとって涙が出るほどありがたかった。
「この家には家事ができる人がいないもので。朝から贅沢をさせてもらいました」
「そんな。サンドイッチなんて誰でも作れるようなものですよ」
「そう思うでしょう? ですがその認識は間違っています。貴方は自分を誇っていいです」
 遠い目をしてライゼスは答えた。
 ライゼスの周囲には料理上手な者がいない。母や妹ほど殺人的ではないが、セラも何をどうしたらこうなるというほど不器用で、料理には向いていない。第九部隊であった頃、たまに三人で野営をすることもあったが、セラはいつも狩り担当だった。そちらの腕は申し分ない。
 因みにティルは、大体なんでも器用にこなすくせに、なぜか料理だけはできなかった。考えてみれば姫育ちだから無理もないのかもしれないが――そんなわけでどこまで行ってもライゼスは自分で作らなければマトモな料理にありつけない境遇だった。
「よければ、王都にいる間食事を作りに来ましょうか?」
 それは神の情けかと思うくらい、ライゼスにとってありがたい言葉ではあった。熱がある体を引きずって家事をするのは正直だるかった。しかし。
「エルベール家のご息女にそんな小間使いのようなことをさせるわけには……」
「ふふっ。人使いの荒いライゼス様の言葉とは思えませんね」
「それは……すみません」
 ライゼスは気まずげに頬を掻いた。たしかにレアノルト滞在中は講義の段取りや手伝いで彼女には色々頼んでばかりだ。
「いつでしたっけ、ほら……どうしてもやってみたい実験があるから、昼までになんとか装置が揃わないかとか言い出して」
「レアノルト中を駆け回ってもらいましたよね。でもお蔭で面白い実験結果が」
「そうそう、あの講義すごく反響があって、あれからでしたよね! ライゼス様が頻繁に呼ばれるように――」
 いつしか弾んでいた会話は、ふと足音に中断された。
 リーゼアは仕事に出かけていたはずだ。となれば、この時間に勝手に上がってくるような人は一人――その可能性に思い当たった頃には扉が開いていた。
「ひ――姫様!?」
 悲鳴を上げて、レミィがバッと立ち上がる。それから慌てて両膝をついた。
「あ……ごめん。来客中だったか?」
 ノックぐらいしろと言いかけて、ライゼスはそれをどうにか飲み込んだ。セラは仮にも王女だ。彼女が望むために普段は家族同然に接しているが、人前では憚られる。
「エ、エルベール家のレミィ・エルベールと申します!」
「エルベール……ええと、そんな畏まらなくていい。ここには私用で来ただけだ」
「すみません。では、私はこれで」
 そそくさと立ち去ろうとするレミィを、セラは慌てて引き止めた。
「いや、邪魔をしたのは私の方だ。私が出直すよ。済まなかったな、ラス」
「いえ……」
 咄嗟に目を背けてしまうのは、昨夜の父の言葉が頭を過ぎったからだった。レミィは別に縁談の件で来訪したわけではなさそうだし、そもそも自分は縁談を受けると一言も言っていない。さらに言えば、セラの婚約者だからとて具体的な話が進んでいるわけでもない。とくに罪悪感を抱かねばならない事項など一つもないのだが。
 扉の向こうにアッシュブロンドの尻尾が消えるのを、ライゼスは複雑な思いで見送った。