10.



「きゃあ!」
 ふわふわと上も下もわからない浮遊感から唐突に開放され、固い床へと投げ出される。衝撃に思わず悲鳴を上げてしまい、その自分の声でリーゼアは我に返った。
「どうして来たんですか、リズ!!」
 目を開けるなり怒号が降ってきて、ビクッと肩を震わせる。あまり見覚えのない兄の睨み顔に、溢れそうになった涙をこらえ、負けじとリーゼアは怒鳴り返した。
「なぜ来てはいけないんですか!? 私の仕事は姫様を守ることです!!」
「遺跡に無理やり侵入したんです。帰れるかどうかわからないんですよ!?」
 だがそう叫ばれると、堪えたはずの涙は簡単に溢れ出していた。
「帰れないかもしれないのにお兄様は姫様を追いかけて……わたしのことは置いていくんですね」
 はっとしてライゼスは妹を見下ろした。
 記憶をさぐれば泣き顔ばかりなくらいに泣き虫だったリーゼアも、いつの間にか泣かなくなっていた。久しぶりに見た妹の涙に、喉元まで出かかっていた叱責の言葉が引っかかって出てこない。
「お兄様はいつもそう……姫様のことばっかり」
「……リズ。そんなことは……」
 ない、と言い切れないことにライゼスは気が付いた。泣き虫で、いつも後ろをついてきていた妹。彼女をなだめて、セラの元に向かっていた。六歳で城に上がったその日からずっとだ。妹はそのとき五歳だった。歳より落ち着いていたライゼスとは対照的に、リーゼアは甘えん坊で、いつも家族の後を追いかけては泣いていた。
「お兄様もティルも、姫様しか見ていないんだから……」
 ぐすぐすと泣き続けるリーゼアの、その涙を拭おうとして手が止まる。
「リズ……ずっと気にはなっていたんですけど……」
 なんとなくそうではないかと思いながらも、口を挟むことではないと黙っていた。思えばそれも妹には冷たいと取られていたのかもしれない。確信に変わった今、思わずライゼスは問いかけていた。
「もしかして、あの人のこと――」
「……ッ! ち、違います! 好きじゃありません、あんな人!!」
 涙が溜まった目をカッと目を見開き、リーゼアが真っ赤になって否定する。それを見てライゼスは溜息をついた。語るに落ちている。否定してもこれでは「そうだ」と言っているようなものだ。
「やっぱりそうなんですか……」
「ち、ちちちが……ッ」
「あの人は駄目ですよ。諦めなさい」
 厳しい声で言われて、リーゼアはついに観念した。
「ごめんなさい……よりにもよってわたしは、お兄様の一番嫌っている人を……」
「そんなことはどうでもいいんです。駄目というより――」
「振り向いてくれないことはわかってます。本人から聞きましたし……だから、諦めてるつもり、です」
 掠れた声で、だがキッパリと告げたリーゼアを見て、ライゼスはうなだれた。リーゼアがティルを見ていることに気が付いてはいたものの、二人の間でそんなやり取りがあったことまでは全く知らなかった。
「ごめん、リズ。もっと早く話を聞いていればよかった」
「お兄様のせいではありません! それに……ティルが悪いわけでもありません。あの人は……ふざけた人ですけど、悪い人じゃないんです……!」
 取り縋って訴えるリーゼアに、ライゼスは困ったように苦笑した。
「僕にそう思われてもあの人は喜びやしませんよ」
 ふとリーゼアは思い出した。ティルは、ライゼスの人柄は嫌いではないと言っていた。だから、二人がいがみ合う理由は別のところにあるのだ。それを思うと、やはり少しだけ胸がチクリと痛む。
 だが、両手で目をこすって涙を払うと、リーゼアは立ち上がった。
「責めるようなことを言ってごめんなさい。……今はそれより、姫様を捜すのが先ですね」
 リーゼアの言葉を受けて、ライゼスも立ち上がる。
「……ええ。近くにはいると思います」
「でも、この部屋……何もありませんよ?」
 キョロキョロと辺りをうかがって、リーゼア。どういう仕組みか見当もつかないが、床が淡く発光しているために周囲がよく見える。だが頭上は闇しかなかった。
 壁はところどころ土がのぞいているが部屋は真四角で、人工的に作られたものであることを物語っている。
「リズは僕がいいというまで、そこを動かないで下さい」
 歩き出そうとしたリーゼアを制して、ライゼスは再び膝をついて足元の床を注意深く調べた 。細かな文様が刻まれた平らな石が、石畳のようにきっちりと敷き詰められている。大きさをざっと手で測ってみるが、縦も横も同じ長さで、どれも全て同じ大きさだ。模様もどれも同じに見える――いや。
(……これだけ少し違う)
 目を伸ばした先に、微妙に違う模様を見つけて、ライゼスはその場から動かず目を凝らした。
「古代数字の……一ですね」
「え?」
 不意に兄が口にした言葉に、リーゼアが不思議そうな声を上げる。
「今僕がいる場所から三つ向こうの床です。模様が古代数字の『一』に見えませんか?」
「言われてみれば……そう見えなくもないですが。でも、どういう意味でしょう?」
 ライゼスはしばらく考え込んでいたが、いくつか仮説を立てたところで、試してみないことには仕方がない。それにもしも危険な遺跡だとしたら、こんなところで時間を潰している場合ではなかった。
『……光よ。我が身に集い、光鱗の鎧となれ』
 念のために魔法でシールドを張る。遺跡全体に光の力が満ちているために魔法を使うことは容易だったが、その分コントロールが難しい。集中を切らさないようにすれば暑いわけでもないのに頬を汗が伝う。それを拭うだけで制御が乱れそうな中、ライゼスは慎重にその床まで移動した。『一』の床に乗っても、とくに何も異変はない。
「……」
 全身を緊張させながら、その隣の床に移動する。すると、床の模様が変化して、古代数字の『二』になった。石板は全て同じ大きさの正方形。それがズレなく敷き詰められているので、隣接する石板は全部で八つになる。
 緊張を解かぬまま、ライゼスはその八つの石板に順番に移動していった。
(二、一、反応なし……三、反応なし、一、一)
 そして、最後の一つに乗ったとき。
 カチッという動作音がした。そして、ゾクリと嫌な予感がする。
「お兄様ッ!!」
「動くな、リズ!!」
 天井から降ってきた無数の矢が、ライゼスの張った魔法のシールドに触れて灰になる。ライゼスがほっと息を吐き出すと、彼を包んでいた光はたちまち霧散した。
「わかりましたよ。この数字は、罠の床を示すものです。『一』の床の周りには一つ、トラップが発動する床があるということ。乗って何も起こらない床は、周りに何もないということです」
「ええと……つまり、触れてなにも起こらなければ、その周囲の床には乗っても安全なんですよね?」
 自分が今いる床を確認して、リーゼア。
「そうなります。恐らくですけど、全ての床を通過すれば仕掛けを解いたことになるんじゃないでしょうか。そうすれば道が現れるかもしれません」
「全ての……」
 改めてリーゼアは周囲を見渡した。ざっと見積もっただけでも床の石板は百枚はある。
「わたしに手伝えることはありませんか?」
「危険ですから、僕が罠の位置を全て特定するまでリズはそこを動かないで下さい。ここは制御が難しくて、魔法を使うのも困難ですから」
「……罠の床を特定することなんて可能なのですか?」
「できますよ。今僕が罠を作動させた床がありますよね。その隣も一ですから、そこに面したほかの床には触れても大丈夫ということになりますよね。これを繰り返して他の床を通過していけば、乗らなくても罠の床があぶり出されて行くわけです」
 臆面もなく、ライゼスは次々と床を移動していく。そして、数字を出現させ、その数を増やしていく。説明を聞いてもリーゼアにはあまり理解できないし、したところで兄のような速度で解いていくことは絶対にできない自信があった。
(……同じところにいるんだとしたら、姫様は大丈夫だろうか)
 迂闊に動いて、罠を作動させていないか急に心配になってきた。リーゼア自身、兄に静止されなければ罠を踏んでいたに違いないと思う。また、その罠を見抜く法則性も絶対に気が付くことはなかっただろう。同様にセラにできるとも思えなかった。
「姫様達は大丈夫でしょうか……」
「同様、または類似の仕掛けがあれば、セラには解けないでしょう」
 ライゼスの口調はいつも通り冷静だが、その声色には少しだけ焦りが滲んでいた。それでリーゼアは気が付いた。いくら仕掛けを理解しているからといってこれほどハイペースで進んでいくのは冷静で慎重な兄にしては珍しいことだ。数字の出た床は安全だろうが、周りに罠のない床と罠の床には変化がない。ちょっとした記憶の間違いで大惨事になりかねない。なのにライゼスは生身でどんどん床を通過していく。やはりセラのことが心配なのだろうが――
「姫様……には?」
 ふと気になって、リーゼアは声を上げた。兄が彼のことについて触れなかったのは、単にどうでもいいからなのか――言いたいことを察したらしいライゼスがその疑問に答える。
「あの人が一緒なら、多分大丈夫でしょう。見た目ほど馬鹿じゃないですから」
「そう……ですかね?」
 リーゼアの声は疑わしげである。別に見た目は馬鹿ではないのだが――むしろ口を開かなければ良いと思うくらいだが――この仕掛けを解けるほど頭が回るとはリーゼアには思えない。
「お兄様って、意外とティルのこと信用してるんですね」
 感じたままを述べると、わき目も振らずに仕掛けを解いていたライゼスが、急にこちらを向く。
「してませんよ! 変なこと言わないでくれますか?」
「はっはい! すみません!!」
 勢いに押されて思わず謝ったものの、兄にしては酷く子供っぽい返しだとリーゼアは首を捻った。兄が人を嫌う時点で既にらしくないと言えばそうなのだが。
 ライゼスがリーゼアを見たのは一瞬のことで、今はもう既に仕掛けの解除に意識を向けている。床を凝視したままで、ライゼスは言葉を継いだ。
「事実を述べてるだけです。あの人はセラの溜め込んだ宿題を、ものの半刻で片づけるような人なんですよ。それも他大陸であるランドエバーの地歴まで含めてね」
「変な人……。そんなに頭がよくて、綺麗で身分もあるのに、なんで第九部隊なんかで姫様を追いかけまわしてたんですか?」
「さぁ……どうしてでしょうね」
 リーゼアの素朴な質問に、ライゼスは曖昧にはぐらかした。もちろん事情は知っているが、それを置いても他にいくらでも道はあっただろう。セラにさえ拘らなければ。
(でもまあ……人のことは言えませんね、僕も)
 複雑な思いを噛みしめて、仕掛けを解き続ける。残る床はおよそあと半分。彼ならばこの程度の仕掛けは解けるだろうが、それでも二人きりにしておくのは別の意味で不安だ。
 ライゼスは表情を引き締めると、次の床に足を踏み出した。