バレンタイン(現代編)

(2012年2月掲載)



 キッチンから、絶えず姉ちゃんの楽しそうな声や、歓声が聞こえてくる。
 時折、それに相槌を打つエドワードの声。
 母さんはいない。友達と映画を観に出かけ、今夜は遅くなるそうだ。
 そして俺は、部屋とダイニングの扉の前を、これで五往復はしただろうか。
 折しも二月。
 この時期、好きな女の子が菓子作りしてるのを目撃してしまった男子なら、誰でも挙動不審にくらいなろうというものだ。俺がおかしいわけではない。多分。
 小一時間ほど過ぎ、姉ちゃんが鼻歌混じりに部屋に戻るのを見届けると、それと入れ代わりに俺はダイニングの扉を開けた。
 甘い匂いが鼻孔をくすぐり、期待が膨らむ。
 俺が入ってきたのに気付いて、エプロン姿のエドワードがこちらを見た。
「咲良。どうかしたか?」
「い、いや別に。えぇと、何してるのかと思って……」
 とか言いつつも、何してるのかなんて見ればわかる。テーブルの上にはボールが並び、泡立て器やゴムベラが突っ込んである。そしてその中には、溶けたチョコレートとおぼしきものが残っている。
 俺のそんなしらじらしい言葉に、けれどエドワードは微笑み、縛っていた髪をほどきながら答えてくれた。
「楓さんに頼まれて、菓子を作っていたんだ。初めて作るものだったから上手くいっているか不安だが、ひとつしかないから味見もできん」
「……姉ちゃんに頼まれて? ひとつしかない?」
 肩を竦めるエドワードの言葉に嫌な予感を覚え、俺はその気になる部分を反芻した。
 そんな俺にエドワードは頷いて、冷蔵庫の扉を開く。後ろから覗きこむと、ハート型のチョコレートケーキが見えた。……ひとつだけ。
「見た目はなかなか良いだろう?」
 得意げなエドワードの声が、呆然とする脳裏で遠く響いた。
 そのまま俺の意識も遠くに行ってしまいそうになったが、すんでの所で帰ってくる。
「……ちなみに、姉ちゃんはなんでこれを作って欲しいかとか、そういうのは言ってた?」
「? 明日渡したい人がいるからとしか。誕生日ではないのか?」
 その瞬間、姉ちゃんに対してのありったけの罵詈雑言が頭の中を流れていった。実際に口にしたら命はないから言わないが。
 しかし、敢えて言いたい。
 アホか。
 絶対これはバースデーケーキなどではない。そもそも、自分の彼氏にあげるものを違う女に作ってもらうとか信じられん。当然のごとく自分が作ったと言うんだろうな。なんて奴だ。俺は心底姉ちゃんの彼氏に同情する。
 けれどこの場合、いちばん可哀想なのはこの俺だ。
「……咲良?」
 真っ白になって意気消沈する俺に、エドワードが不思議そうな声をかけてくる。そんな彼女に対して、俺は一縷の希望をかけて問いかけてみた。
「……俺のは?」
「え?」
 戸惑いを含んだそんな返答は、明らかに俺の分などないことを示していた。
 最後の儚い望みを砕かれて、俺は力無くその場に崩れ落ちる。そこまできて、エドワードも俺の元気がない理由を察したのだろう。慌てたような声が降ってきた。
「済まない……。けれど咲良、甘いものは苦手だろう」
 それを覚えててくれたことは嬉しいが、それによって俺の分を作らなかったというなら悲しむべきことなのか。
 確かに俺はあまり甘いものは好きじゃない。でも嫌いというわけじゃないし、この場合話は別だ。それより何より。
「エドワードが作ったものなら何でも食べるのに……」
「ライみたいなことを言うな」
「違ーーーう!」
 そこで超絶シスコンと同列にみなすな! という言葉は辛うじて飲み込み、けれど思い切り否定の言葉を叫びながら立ち上がる。
 いや確かにあいつなら、エドワードが作ったって言えば生ゴミでも産廃でも喜んで食いそうだけれども、けれども!
「そうじゃなくて、明日は――」
「……?」
 明日はバレンタインデーなのだ。即ち、女の子が意中の男の子にチョコレートをプレゼントする日である。
 しかしそんな日本特有のイベントをエドワードが知っているわけもない。仮に知っていたとしても、俺にくれる保証もない。それを、勝手に貰えるかもしれないと思ったのは完全なる俺の思い上がりだ。そんなことは分かっているけれど。
「ああ! 済まない、今思い出した。この頃テレビでよくやっている、男性に贈りものをする行事のことか」
 ふと、エドワードがそんなことを言う。
 しかしこうなると、バレンタインにエドワードからチョコを貰いたかったというのがバレバレになってしまい、俺は恥ずかしさに目を逸らした。その逸らした先で空のボールを恨めしげに見つめていると、ふいにエドワードはその中に手を入れて、ボールに残っていたチョコを指で掬った。
「……ええと。少しだが」
 予想外の切り返しに、硬直する。
 ……これを、どうやって食えと。
 それを食べるシチュエーションを想像したら、顔にぼっと火がついた。そんな俺を見て、エドワードが逆の手を口に当て可笑しそうに声を上げて笑う。
「冗談だ。少し時間はかかるが、ちゃんと作――」
 エドワードの声が途中で切れたのは、俺が手を掴んだから。
 きょとんとこちらを見る彼女にとっては、想定外のことだったのだろう。
 掴んだ手に顔を近づけ、差しだされたチョコレートを“直接”頂いて顔を上げると、きょとんとしていた顔は耳まで真っ赤になっていた。
「からかわれっぱなしだと思うなよ」
 強がってみたけど多分真っ赤なのは俺も同じで、まだ舌に残るチョコレートの味もよくわからない。
 ただ、大人しくからかわれている気にはなれなかったのは、怒っていたから。俺がお預けを食らったというのに、そうと知らぬとはいえ、違う男がエドワードが作ったケーキを食べるのだ。これくらいはしないと気がおさまらない。
「咲――、」
「頼まれても、もう他の男には作るなよ!?」
「は、はい」
 詰めよると、エドワードが気圧されたように返事をする。それを見て満足したら、突然睡魔に襲われた。
「ところで……、まさか、香り付けの酒に酔った……とかではないよな? 相当少量だぞ?」
「ふにゃ!?」
 遠くの方で、信じられない、という響きのエドワードの声が聞こえたが、それが終わる頃には俺の視界は暗転していたのだった。