七夕(現代編)

(2012年3月掲載)



 夕方、母さんに呼ばれて部屋を出ると、玄関には大きな笹が置かれていた。それを見て、今日は七夕だったというのを思い出した。
「晴れて良かったわねー。今日願い事書いたら絶対叶うわよ!」
 上機嫌の母さんは、いつの間に用意したのか、両手いっぱいに短冊を持っている。姉ちゃんはといえば、さっそく床にうずくまって、一心不乱に何事か書いている。どうせ書くことは毎年同じだ。金持ちでイケメンの彼氏ができますようにとかそんなのだろう。
 そしてエドワードは、といえば。状況がわかっていないのだろう、笹と母さんと短冊を、不思議そうに見比べていた。
「……前に言ったことなかったっけ? 七夕っていう日本の行事で、今晩笹に願い事を書いて吊るすと叶うんだ」
「こら、バカサク! そんなロマンのない説明をしない!」
 俺が手短に説明していると、姉ちゃんが凄い勢いで噛みついてきた。そして手早く短冊のこよりを笹に結び付けると、俺とエドワードの間に割って入る。
 ちらりと姉ちゃんの短冊に目を走らせると、『スタイルが良くて年収が高くてイケメンで性格の良い彼氏ができますように』と書かれていた。欲深すぎて姉ちゃんの方がよっぽどロマンもへったくれもないと思う。
「エドちゃん、七夕っていうのはねぇ……」
 姉ちゃんは七夕の云われについて語り出し、母さんはいつの間にか短冊をおいていなくなっていた。
「俺、シホウの散歩行ってくる」
 外でシホウがわんわんと散歩をねだって吠えている。けど姉ちゃんの話は長くなりそうだし、母さんもいないし、丁度俺も暇を持て余していたので、そう言って俺は家を出た。
 そしていつもの散歩コースを回って帰ってきた俺を出迎えたのは、姉ちゃんの怒声だった。
「どーこ行ってたのよバカサクっ!!」
 シホウを繋いでいると、不意に頭に衝撃と激痛が走る。涙を堪えて転がったものを拾ったら下駄だった。いくらなんでもこれは酷い。なんてものを投げるんだ。さすがにこれは文句のひとつも言おうと下駄を掴んで立ち上がり――下駄?
「なんで下駄……」
 不審に思って改めて姉ちゃんを見ると、姉ちゃんは浴衣を着ていた。ピンクで襟元にフリルのついた今風のデザインだ。そんないでたちの姉ちゃんが、裸足になった片方に健康サンダルをつっかけて、俺から下駄をひったくる。だがその頃には、俺は頭の痛みも忘れて違うことが気になっていた。
「どお、可愛いでしょー」
 姉ちゃんが袖を広げて見せるが、正直姉ちゃんはどうでもいい。
「エドちゃんも可愛いわよー」
 ぼそっと姉ちゃんが呟いた言葉こそ、俺が最も気になっていたことだった。ダッシュで家に駆けこみたいところだが、そんなことをすれば姉ちゃんに半年先までからかわれる。表面上は冷静を取り繕って、俺は「あ、そう」とだけ返し、極めて普通の速度で家に入った――のに、背後で姉ちゃんがくすくすと笑った。でももういい。構っている場合ではない。
 ドキドキしながらリビングを開けると、母さんが浴衣を入れるたとう紙やら予備のかんざしやらを片付けていた。
「エ……エドワードは?」
「部屋にいってるわよ。あんたが帰ってきたら夏祭りに行こうって話になってるから、もう下りてくると思うけど。花火も上がるんだって。楽しみねぇ」
「そ、そう。じゃあ、俺、呼んでくる」
 極めてさりげなく言ったのに、何故か含み笑いをされた。い、いいよもう。
 駆けあがりたい衝動を堪えながら階段を上っていたら、我ながら自分が滑稽になってきて、途中からは開き直って駆けあがった。けどさすがにその勢いでエドワードの部屋に駆けこむわけにも行かないので、一応部屋をノックする。
「エドワード、開けていい?」
 呼びかけると、やけに遠くで返事が聞こえた。でも引き戸を開けても、中にエドワードの姿はない。ただ窓が開け放たれていて、そこから顔を出すと、上から声が降ってきた。
「ここだ」
 思い切り身を乗り出すと、ひょいとエドワードが屋根の上から俺を覗きこむ。驚いて落ちそうになった。
「ど、どうやって上ったんだよ、そんなとこ」
「どうやってと言われても……窓枠に乗って屋根に手をかければ普通に上れるだろう」
 まあ、そうだが……浴衣着てるんじゃなかったのか。動きにくいだろうに、よくそんな危険なことができるもんだ。エドワードが下りてくる気配がないので、俺も上に上ることにした。窓枠にのぼって屋根に手をかける……が、これ、よじのぼるの結構大変なんだけど。必死で這いあがったら少し息が切れた。でも顔を上げたら息が止まった。
 夕日をバックにして、髪を結いあげたエドワードは、浅葱色に大輪のオレンジの花をあしらった浴衣を着ていた。あまりにも綺麗過ぎて声も出なかった。異人さんに浴衣は似合わないというが、エドワードは黒髪だし、目も黒に近いし、そんなに違和感がない。というか、完璧なまでに似合う。そして、可愛いというより妖艶だった。心臓がばくばくしてうるさい。
「すみれさんに着せてもらったんだ。この国の伝統的な服装だって」
 少し恥ずかしそうにエドワードが袖を広げて見せる。だ、駄目だ。気を抜いたら落ちる。
 だけど静寂に気付いて俺は慌てた。な、何か言わないと。
「に――似合うよ」
 ぅあ、どうして月並みなことしか言えないんだろう。しかも、あまりにも綺麗すぎて直視できない。目を逸らして黙り込んだら感じ悪いだろう。焦りばかりが空回りして、結局それ以上何も言えずにいると、エドワードは腰を下ろした。
 夕日はどんどん沈んでいって、オレンジの空が紫に変わっていく。
「黒以外を着たのは久しぶりだ」
 ややあって、エドワードがぽつりとそんな声を落とした。その声には何故か元気がなくて、俺は懸命に言葉を探した。
「えっと……そういえば、エドワードってこっちきてからも黒ばっかり着てるよね。やっぱ黒が好きなの?」
「ああ」
「なんで?」
 今そんなことどうでもいいと思いながらも、だからといって気が利いた言葉が浮かばない。それに、色の好き嫌いに理由なんてないだろう。案の定エドワードは少し困ったような顔をして、俺は慌てて話題を変えようとした。けれど、結局俺が新たな話題を探す前に、エドワードが答を口にする。
「血が……目立たないから」
 俯いたエドワードから零れた声に、俺は思い切り自分を殴りたくなった。なんでこんなこと聞いたんだ、俺の馬鹿。けれどそれを後悔したところで今更どうしようもない。
「……だったら!」
 必死で声を絞り出す。どうせ下らないことしか言えないけれど、何も言わないままじゃ、エドワードは俯いたままだ。
 せっかくこんなに綺麗なのに、俯いていたら勿体ない。
 黒を着てるエドワードも綺麗だけれど――でも。
「だったらもう、黒を着る必要ないじゃないか。黒も似合うけど他の色も似合う。今着てる浴衣だってすごく綺麗だ」
 急に喋り出した俺に、気圧されたようにエドワードが顔を上げる。
「そ、そうか?」
「そうだよ。それにほら、久しぶりって言ってたけどルゼリアでは白いドレス着てただろ? あれも凄く綺麗だった。ウエディングドレスみたいで」
「う、婚礼衣装ウエディングドレス?」
「あ、いや、あの……」
 エドワードの顔が赤いのは、夕日のせい……か? ちなみに俺は夕日のせいでもなんでもなく、今顔真っ赤だと思う。余計なことまで喋りすぎた。
「あのさ……うん、とにかく、綺麗だってこと」
「……」
 またエドワードが俯いた。そしてぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「……そう褒められるのはあまり好きではなかった。私は女を捨てた身だし、傷だらけだから……、飾らねば私は綺麗ではないのだと、歪んだ受け止め方しかできなくて」
 ああ、俺、やっぱり余計なことを言ってしまったようだ。
 でも、違うんだ。ドレスを着てるから、浴衣を着てるから綺麗だと思うんじゃなくて、エドワード本人を好きだからこそ、どんな格好をしていても好きだと思えるわけで……、でもさすがにストレートにそんなことを言う勇気はない。
 ないけど、このままじゃエドワードは顔を上げてくれない。覚悟を決めて両手を握りしめたとき、ふいにエドワードが立ち上がった。
「でも、君に言われると嬉しい。不思議だ」
 その瞬間、ひゅう、と音がして、大きな音と共に夜空に花火が閃く。だけど、花火よりも、その花火に照らされたエドワードの笑顔の方が、何倍も、何千倍も綺麗だった。
 音に驚いたのだろう、エドワードが後ろを振り返るが、俺は彼女に詰め寄って両手でその顔をこちらに向けた。
「咲――」
 驚いた顔のままエドワードが俺を見て名を呼びかけたが、途中でやめた。
 二発目の花火が夜空を彩る。――その直後。

「咲良、エドちゃん、早く! 花火始まっちゃったよー!」

「……」
 姉ちゃんの叫び声が、あと一センチを乗り切る勇気を根こそぎ俺から奪った。
 至近距離でくすくすと笑いながら、今行く、とエドワードが返事をした。
「咲良」
 不貞腐れてながら屋根から下りていると、ふとエドワードに呼びとめられる。
「短冊に何を書くか、決めたよ」
「……何?」
「秘密だ」
「あ、そう……」
 まだくすくす笑っているエドワードを見て、なんだかからかわれた気がしたけれど、俺も笑った。

 ちなみに、俺が書くことは最初から決まっている。