第五話 王の画策



 身支度を整えると、エレオノーラは一人で父の私室へと向かっていた。
 肩までになってしまった髪をどうにか結いあげてもらい、簡単にだが化粧も施してもらった。そうしてドレスを着れば、エドワードの面影はなくなってしまうはずだった。それでも何度も鏡で確認してから、拭えぬ不安と共にエレオノーラは部屋を出た。
 父とはいえ国王に会うのであるから、身なりを整えることはおかしくない。だが夜更けの急な呼びつけに、平素ならここまではしなかった。しかしそれを勘繰られることより、短くなった髪からエドワードを連想される方が、今のエレオノーラには怖かった。
 支度に手間取ってしまったので小走りに父の私室へと向かい、騒ぐ胸を落ち着かせながら扉を叩く。
「父上、エレオノーラにございます」
 動揺を悟られぬよう毅然とした声で名乗り上げると、入れ、と低い声が返ってきた。父の部屋に入るのは、初めてではない――という程度にしか訪れたことはないが。概ね、記憶と変わったようなところはない。城のどの部屋より広く、天井も高く、父王は飾ることに興味がないため、調度品も装飾もほとんどない。目につくのは剣や鎧などの武具ばかりで、王の私室というよりまるで練兵場のような印象を受ける。
「このような時間に、一体どのようなご用でしょう?」
 問いかけても返事はなく、だがその代わりとばかりに足元で重い音がする。
「父上……?」
 足元に投げて寄越されたものを見、父の意図がわからず、エレオノーラは戸惑いの声を上げた。
「抜け」
 返ってきたのは答ではなく短い命令で、ますますエレオノーラは狼狽する。放られたのは一振りの剣だった。訳もわからず立ち尽くしているうちに、ぴり、と空気が震えた。もちろん実際に震えたのではなく、感覚的なものだ。確かにそこにあるというものではないが、確かにひやりと肌を撫でて行くそれは、きっと殺気と呼ばれるものだと。
 気付いたときには父は剣を抜いていた。
 何かの冗談だと思った。――相手が父ではないのなら。
 反射的に剣を拾う。冗談でないのなら、そのまま立っていれば斬られるだけだ。
 やはり今日の一件が露見したのだろうか。それで異端裁判にかけるまでもなく、この場で処分しようというのか。ぐるぐると渦を巻く思考は、だが剣に触れた瞬間に消えた。それから剣を抜いたのは、何かを考えてのことではない。
 死にたくないとか、抗いたいとか、そんなことも考えてはいなかった。ただ冷静に、こちらに向かう剣の切っ先に視点を当てる。
 それが振り下ろされて、真っ向から受け止めれば、力で押し負けるのは確実。ならば選択は二つ。受けて捌くか、避けるか。ただし避けるならぎりぎりまで引きつけてからでないと追随されてしまう。しかし歴戦の父の剣をうまく捌くことなど不可能に思えた。
 ならば、選択肢はひとつしかない。
 こちらに向かってくる剣に対して、まっすぐに剣を構える。振り抜かせて、その隙を狙う。それしかなかった。ただ避けるだけなら、臆さず集中すればできぬことはないはずだ。
 父が剣を振り上げる。無駄な動きなど一つもないからこそ、その軌道ははっきりと読める。実の娘に対して一分のためらいもないこともまた、予想の範囲内だった。
(まだだ――)
 恐怖は棄てる。焦燥も棄てる。必要なのは、どこまでも細く研ぎ澄まされた神経と、集中力。
 切っ先が視界から消える。自分の脳天に迫るそれが、いつ自分に触れるかは、あとは感覚で推し量るしかない。
「――ッ!」
 ふと風を感じたその瞬間、右足を軸にして左足のみを引く。髪を結っていた紐が切っ先に触れて、ばさりと髪がおちる。そのうちの数本かが宙を舞う頃には、エレオノーラは手を返していた。剣を振り下ろすのに、こちらもためらいなどない。研ぎ澄ませた神経に、余分な感情の入る余地などなかった。だから、手が震えたのは剣を振り抜いてから。
「……あ……」
 手ごたえはなかった。そして、目の前に父の姿もなかった。
 首筋に圧力を感じて呆けたような声が滑り出る。視線だけを巡らせると、父の剣の切っ先が首元に触れているのが見えた。体が強張るが、自由はすぐに返ってくる。
「やはり昼間のあれは、お前か」
「見て……おられたのですか」
 父が剣をおさめるのを見て、エレオノーラは深く息を吐き出しながら思わず首筋に触れていた。切られたのではないかと思うほどの威圧だったが、手には血の一滴すらもつかなかった。
「私は、異端裁判行きですか」
「――それにはあまりに惜しい」
 覚悟と共に問うた声に、返ってきたのは思わぬ言葉だった。
「エレオノーラ。剣を手にしたのは今日が初めてだな?」
「はい……」
 確認に近い問いかけに困惑したまま頷く。しばらく返事はなく、エレオノーラはうなだれていた頭を上げた。そこにあった父の顔にあるのは、いつもの取りつく島もない厳格さでも、冷たさでもなく。
 哀しみ。いや、憐れみ。
 そのような父の表情を、エレオノーラは未だかつて見たことが無かった――否、一度だけ。
 母が死んだ、あの日見せた顔とよく似ていた。
 どうして父がそのような顔をするのか理由がわからず、戸惑うばかりの娘の傍まで王は歩み寄る。
「――エドワードはもう長くないだろう」
「…………」
「しかしライオネルは未だに剣を取ろうとせん。ハーシェン家の男は腑抜けばかりだ」
「…………」
 父の嘆きに、エレオノーラは唇を噛んだ。兄も弟も好きだから、そんな言葉は聞きたくない。しかし反論できぬ程度には、エレオノーラは父のことを嫌えなかったし、ハーシェン家を憎めなかった。結果、何も言えないエレオノーラの双肩に父王が両手を置く。
「お前は今日より剣を取れ」
「……父上?」
「私が教える。そして、来るべき日には、お前がエドワードになるのだ」
「仰っている意味が、わかりません……」
 肩が壊れそうなほど、父が両手に力をこめる。その痛みもどこか遠いものに思えていた。
 そして吐き出した言葉は嘘だった。
 エドワードの代わりに戦うことに依存はない。しかしそれはこの国――ひいてはグラン・ルゼリアの宗教観が覆らない限り不可能なことだ。それに、父が言うことはきっと、自分が認めたくないことの向こうにある。
「エドワードが死ぬ日は、お前が死ぬ日と覚悟しておけ」
 それを痛いほどはっきりと突きつけられ、エレオノーラは戦慄した。
 しかしそれに抗う術を、彼女は持たなかったのである。

 運命の日が訪れたのは、そのおよそ三年後だった。