第四話 逝く者の願い



 陰鬱な気分で、エレオノーラは帰途についていた。先ほどまでの浮かれた気分は、すっかり消え失せてしまった。何人かに「エドワード様」と呼びとめられたが耳に入らず、真っ直ぐ自室に向かい、部屋の扉を開ける。
「何処に行っていた、エレオノーラ」
 誰もいないと思っていた薄暗い部屋から声があり、エレオノーラはびくりと肩を震わせた。暗がりから現れたエドワードと、鏡合わせのように向き合う。ただし、表情は対照的だった。
「……兄上……?」
 いつも穏やかな兄のそんな表情は初めて見るものだった。双眸から吹きこぼれそうな感情は怒り以外に例えられず、だがその理由がわからない。レインハルトを怒らせたことは、たばかろうとした頭があるから仕方ないと思っていた。だが兄を怒らせるようなことはしていないはずだ。それどころか調子の悪いエドワードの代わりに剣の稽古を受けたのだから、感謝されてもいいくらいだと思っていた。
「自分が何をしてるのか、わかっているのか……?」
 ぞっとするような声色と共に、エドワードが手を伸ばしてくる。生まれて初めて兄を怖いと思った。咄嗟に避けようとしたが間に合わず、強い力で肩を押されて、エレオノーラは強かに床で背中を打った。とても病に侵されてているとは思えぬ力だった。それに怯んでいる間に、もがく体を押さえられて無理やり服を剥ぎ取られる。
「やめて、兄上――」
「すぐに着替えるんだ。異端裁判にかけられたいのか」
 だが出かかった悲鳴は、兄の表情を見て消えた。エドワードの手から力が抜けると同時に、エレオノーラも抵抗しようとした手を止める。
 女が戦に出ることも、男装することも、宗教上禁じられている。平民も王族も等しく異端裁判にかけられ処罰されるのだ。
「エル……」
 母が逝ってからは彼しか呼ぶ者のない愛称を優しく呼ばれ、拘束を解かれてもエレオノーラは動けなかった。覆いかぶさるようにして、エドワードの手が触れる。さっきのような力尽くではなく、愛しむように、優しく。
「私はもうすぐ逝く。だがお前には幸せでいて欲しいんだ」
 静かな声に、エレオノーラは息を飲んだ。少しずつ、夜の闇が部屋を侵食していく。
 頬から髪に手を滑らすと、エドワードは短くなってしまったそれを惜しむように撫でた。
「いいか、二度とこんなことはするな。お前は周囲を気に掛け過ぎだ。自分を顧みることも覚えた方がいい……」
 その頃には恐怖など消えていた。髪に触れる手に手を重ねる。その体温が、消えてしまうなど信じられないことだった。信じたくもなかった。
「兄上……」
 掠れた声で呼ぶと、手から温もりは離れた。エドワードが立ち上がり、エレオノーラも体を起こす。だが、足に力が入らず、立ち上がることはできなかった。
「乱暴なことをして済まぬ。だがお前はこのくらいしないと聞かないだろう」
 詫びながら差しだされた手に、手を伸ばしかけるが掴めない。
「……嫌。もう置いていかないで」
 母を失ったときの虚脱感に襲われ、伸ばそうとした手を自分に引きよせて、エレオノーラは膝を抱えた。そうして涙を堪える。
 ――誰かを失うのは、もうたくさんだ。なのに、兄は病魔に侵され、父は戦場へ行く。例えば何かの奇跡が起きて、兄の病が治ったとしても、結局は戦へ行ってしまうのだ。馬鹿げていると思う。それを止められるならば、どんなことでもするのに。
 せめて、今ある家族を守りたいと思うのに、それすらも許されない。
 済まないと、小さく紡がれた声を、エレオノーラは聞こえない振りをした。

 エレオノーラの長い一日は、まだ終わらなかった。
 エドワードが出ていってから、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。だが、ノックの音に目を覚ます。
 服を着ないまま寝ていたので慌ててドレスを探すが、すぐに人と会うのは無理だと体裁を整えることを諦め、エレオノーラは扉の外に短く問いかけた。外の暗さから察するに、もう夜更けだ。身支度など整っていないのが普通だろう。
「誰ですか?」
「フィオラにございます」
 侍女の一人の名を聞いて、エレオノーラは益々怪訝な顔をした。身内ならともかく――ことライオネルは、頻繁に寝つけないと言って夜更けに部屋を訪れてくる――侍女がこんな時間に部屋を訪ねることなどただごとではない。
「何?」
「陛下がお呼びです。すぐにエレオノーラ様をお連れするようにと」
 どきりと、心臓が大きく脈打った。さっと顔から血の気が引いて、体全体が冷えて行くのが自分でもよくわかる。
 これが今日でないのなら、何の用事かと思ったくらいだろう。だが、今日という日がエレオノーラにとってはまずかった。
 エドワードと入れ代わっていたことが父に知られてしまったのかもしれない。厳格な父は、娘だからと特別扱いするような人間ではない。事実とわかれば容赦なく異端裁判に突き出すだろう。
「エレオノーラ様?」
 今一度名を呼ばれ、エレオノーラは我に返ると慌てて返事をした。
「今、行くわ。ごめんなさい、支度を手伝って貰える?」
 震えを堪えてそう言うと、兄の服をベッドの下に押しやった。