第三話 剣と髪飾り



 寝苦しさにエドワードが目を覚ますと、太陽は既に一番高い位置を越えていた。
 慌ててベッドを降りようとして起き上がるが、それだけの行為が訓練よりも苦行だった。錘でも縛りつけられているように重い体はまるで言うことを聞いてくれない。そんなことは日常茶飯事ではあったが、今日は一等酷かった。
 はいずるようにしてベッドを抜け、剣を手に取る。その重さと言ったら、人を一人抱える以上に思えた。ひきずりながら部屋を出て、壁に手をついてホールへと向かう。だが、そちらの方から聞こえてきた音に、エドワードは柳眉をひそめて歩みを止めた。
 その音は、剣のぶつかり合う音。
(稽古が……始まっている?)
 そんな馬鹿なことがあるはずなかった。今から向かうのは軍の訓練ではなく、自分の為の個人的な稽古だ。階段を降りるのをやめ、エドワードは体をひきずって、吹き抜けから下の階を覗きこんだ。
 視界に飛び込んできたものを見て――凍りつく。
 そこには自分がいた。
 肩までの黒髪を翻して、軽々と体を動かし、戦う自分。まるで、いつもの稽古を客観的に観ている感覚に捉われる。だが、違う。もう自分はあんなに活き活きと動くだけの体力がない。そして何より、自分は――エドワードは、ここにいるのだ。
「……エレオノーラ……ッ」
 その名を噛みしめるように呼び、引きずっていた剣を砕かんばかりに握り締める。

 運動した後の心地よい汗を拭い、エレオノーラは自室へと向かっていた。足がもつれそうなほど疲労していたが、その疲れもまた心地よいものだった。昨日くすねておいた兄の服も、ドレスよりずっと動き易くて気に入っていた。
「もっと早くこうすれば良かったんだわ」
 疲れも忘れてスキップでもしたい気分だったが、それを思うと悔しくもあった。もっと早くにこうしていれば、兄の病があそこまで悪化することもなかったろう。
 剣の持ち方も振り方も見よう見まねだったが、思ったよりずっと巧く戦えた。褒められることさえあった。それほど剣術がやりたいわけでもなかったが、褒められれば悪い気はしない。戦は嫌いだが、純粋に剣を振るだけならば楽しいと思った。うまく隙をついて剣を繰り出す駆け引きは、エレオノーラにとって競技と同じ感覚だ。それらとて、女性の自分には縁がないから余計に楽しい。
 部屋に戻ってベッドに飛び込み、そのまま眠ってしまいそうになって――だが、大事なことを思い出して睡魔に抗い、起き上がる。
 レインハルトと約束していたのを思い出した。
 面倒だが、すっぽかせば押し掛けてくるのは目に見えている。しぶしぶ着替えようとして、服を脱ぎかけて、だがやめる。また、妙案を考え付いたのだ。
 元通りに服を直すと、エレオノーラはその格好のままで部屋を飛び出した。
 今のところ、誰にも気付かれていないのだ。レインハルトだってこの格好を見れば、きっとエドワードだと思うに違いない。兄との見分けもつかないのかと言ってやったら、いつも余裕綽々なあの笑顔はどんな風になるだろうか。
 楽しい悪戯を思いついた子供のような目を輝かせ、エレオノーラは城を出ると、すぐ傍に居を構えるエンズレイの屋敷へと向かった。エレオノーラのハーシェン家とエンズレイ家は旧くからの付き合いだ。ヴァルグランドが興ったのと時を同じくして、エンズレイはその長きに渡ってずっとハーシェンに仕えてきた。ハーシェンとエンズレイは、いわばヴァルグランドの光と影なのである。
「これは、エドワード様」
 エンズレイの使用人達は、こちらの姿を認めるや否や、各々の作業を中断して敬礼をする。彼らがこちらをエドワードと呼んだことに内心でほくそ笑みながら、エレオノーラは片手で礼を解くよう促した。
「私的な用事だ。レインハルトはいるか」
「は……、しかし……」
「通るぞ」
 彼らが言い淀んだ理由は想像できる。恐らく、今日来るのは『エレオノーラ』の方だと聞かされているのだろう。だがそれを理由に『エドワード』の訪問を断ることなど使用人にはできない。彼らの間を悠々と行き過ぎ、エレオノーラはレインハルトの部屋を訪ねた。
「久しいな、レインハルト。エレオノーラからの伝言だ。今日は所用で来られぬと」
 出迎えたレインハルトに、しゃあしゃあと述べる。それを見て、彼は形の整った眉を寄せた。
「……なんのつもりだ」
「え……?」
 まさか見破られるとは露も思っていなかったエレオノーラは、彼の言葉の意図を計り損ねた。
「まさかオレをたばかる為だけに、その髪切ったわけではないだろうな」
 だがそこまで言われれば、エレオノーラも気付かないわけにはいかなかった――ただの一瞬たりとも、彼を欺くことはできなかったということに。
 悔しさに唇を噛むこちらを尻目に、レインハルトが服の中から何かを取り出す。
「……あ」
 綺麗に包まれたそれが、渡したいものであることは想像がついた。恐らくは、ローデルフィールからの土産だろう。だが、レインハルトがその包みをとき、現れたものを見てエレオノーラは思わず声を漏らした。
「何より、君を見分けられぬと思われていたのが心外だ。この礼はいつか必ずするぞ……エレオノーラ」
 氷のように薄く、鋭く、冷たい声と共に、レインハルトが手にしていた髪飾りを握り締め、砕く。
 だが謝罪の言葉は、口に貼りついたまま、どうしても声にはならなかった。