第十話 その夜、少女は誓う



 酷く風変わりな少女――、否、彼は少年だった。
 末妹くらいの歳の、酷く儚い少女だと思っていたのに、たったひとつ年下の少年だと言う。大きな瞳も、白い肌も、幼い顔つきも、見れば見るほど少女にしか見えないというのにだ。
 しかし、それよりも問題なのは瞳の色だった。
 暗闇では気付かなかったが、彼はこの国では忌まれる赤目をしていたのだ。
 リディアーヌの脅威はまだヴァルグランドの民にとって新しい記憶だ。三度復活を遂げたリディアーヌを民は魔女と恐れ、転じて彼女と同じ赤い瞳は魔女の証などという迷信が出回った。
 だが元よりエレオノーラは、魔女という存在を信じていなかった。というより、正しくは、魔女だからとて忌み嫌ったり恐れたりする感情を持っていなかったのである。そんな曖昧なものより、戦場で血にまみれて戦う自分の方が余程恐ろしかった。
 戦が、人を魔女や悪魔にしているのだ。しばしばそう感じることがあるが、それを口にすることは許されなかった。
「魔女か……」
 ソファの上でまどろんでいたエレオノーラは、ふとそう呟いて体を起こした。
 顔を上げて視線を延ばせば、部屋の隅で小さくなって眠る咲良が見える。
 脅えた目でこちらを見ていた彼が、馬の背で、震える手で背を掴んでいた彼が、嘘をつくのが酷く下手な彼が、自分を籠絡しようとしているとはとても思えなかった。
 眩しいほどの月明かりに浮かぶ寝顔は、無垢で、無防備で、ふと頬が緩む。彼を見ていると幼い頃のライオネルを思い出すのだ。世話が焼ける弟だったが、大人になってしまうと酷く寂しい。世話を焼いているのが楽しかった。懐いてくれるのが嬉しかった。笑ってくれるのが幸せだった。
 そう思うと、世話が焼けるのは自分の方だったのかもしれない。
 ただ、家族に笑っていてほしかった。それだけの願いは、この戦乱の世だと酷く難しい我儘になってしまう。
 エレオノーラは嘆息して立ち上がり、寝室から毛布を持ってくると、そっと眠る咲良の上にかけてやった。起こさないように注意を払ったが、その必要がないくらい全く起きる気配はない。かがみこんでその顔を見つめていても、規則正しい寝息を繰り返すのみだ。
「戦がない世界か。そんな場所が本当にあるのだろうか」
 無意識に、そう呟いていた。
 確かに彼はそう言ったのだ。自分はここではない場所から来たのだと。そして、そこには戦などなかったのだと。
 ヴァルグランドに生まれ育ったエレオノーラは、戦がない生活など知らない。フレンシアに勝つことだけを教えられて生きてきた。それ以外の生き方は、ことハーシェン家では許されない。
 例え、戦で家族を失おうと。笑顔を失おうと。積み重なりすぎた悲しみに、涙を失おうと。
 それが悲しいことだと思う、自分の気持ちにずっと蓋をしてきた。戦がなければ、そうする必要もなかっただろうに。
 戦がない世界など想像もできなかったが、そう聞いたとき、すとんと腑に落ちたのも確かだ。だからこの少年は、こんなに無垢な瞳で、こんなに無防備に眠れるのだと。嘘も上手くつけない純粋な心でいられるのだと、そう思った。だから、こんなに眩しく、温かいのだ。
「やはり君は魔女なのかもしれぬな。甘言を弄して私を惑わせる。そうして私の命を狩る算段か」
 凄んでみたが、寝息が途絶えることはなかった。疑うことが馬鹿らしくなるほど、安らかな寝息を立てる彼を見て、ふっとエレオノーラは微笑む。苦みのない笑みが浮かんだのはいつぶりだろうと思いながら。
 いつか殺されるならそれでも構わない。彼のお蔭でこの場所に戻ってこれたのだ。もう少しで弟や部下を見捨てるところだった。そうなっていたかもしれないと考えると体が震えた。あのときの方がよほど正気でなかったと思う。
 戻ってきて良かった。ライオネルの顔を見て、咲良の寝顔を見て、心からそう思える自分にエレオノーラは安堵した。
(まだ戦える)
 剣に触れて、ゆっくりと口の中で囁き、そう自分に言い聞かせる。
「……異世界からの客人よ。今夜の借りは忘れぬ。君が魔女でも死神でも、私は君を守ると誓おう」
 静かな夜だった。しかし戦乱の影は音もなく忍び寄り、二人を飲み込もうとしていた。


- 第零部・完 -