15.しあわせの日常



「痛ーッ! 痛い! かけすぎ!」
 家に入ると早速手の傷に目をつけられ、エドワードに消毒薬をぶっかけられて悶絶した。
 手当てしてくれるというのでお言葉に甘えたが、これはケンカの仕返しととらえるべきだろうか。恨みがましい目でエドワードを見ると、同じような視線が返ってきた。
「これくらいで騒ぐな。男だろう」
「ハイ、ゴメンナサイ」
 そう言われてしまえば返す言葉もなく謝る。実際、こんな傷手当てが必要なほどのものでもない。消毒薬でべたべたになった手の甲に息を吹きかけていると、再びその手をエドワードに捕まえられた。
 また何かされるのではと身構える俺の目の前で、傷の部分にガーゼを当てられ、手慣れた様子でエドワードが包帯を巻いてくれる。そこまでするほどの怪我じゃないから遠慮しようとしたけれど、結局包帯を巻き終えるまでエドワードは離してくれなかった。
「……自分を傷つけるような真似はしないでくれ」
 薬や包帯を仕舞いながら、エドワードがそんなことを呟く。見ていたわけでもないだろうに、なんでそんなに見透かしているんだろう。
「うん……ごめん。ありがとう」
 素直にそう言うと、エドワードはほっとしたような、それでいてどこか寂しそうな、複雑な表情をした。
「言葉。さっきは解ったのに、元に戻ってしまった」
「え、そうなの!?」
 驚きの事実を口にされ、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。やっぱり俺、喋れるんじゃん。
 やっぱり、日頃はどっかで日本語を意識しちゃうんだろうな。だから俺の言葉も日本語になっちゃうんじゃないだろうか。やっぱり、無意識にならなくちゃ駄目なんだ。さっきはとにかく無我夢中で余計なことなんて何も考えられなかったもんな、って、ちょっと待ってくれ。
「……ってことは、さっきの全部通じてたの!?」
「ああ、最初から最後まで全部一字一句はっきりと」
 考えながらとんでもないことに気付き、思わず悲鳴に近い声を上げてしまった。対してエドワードは真顔のまま、やけにはっきりきっぱりと答えて顔から火が出そうになる。全然通じていなかったと言われても泣きたくなるが、通じていなかったかもしれないとちょっとほっとしていただけに、今すぐ穴を掘って潜りたい。
「……手、動かしづらくないか?」
「あ……、う、うん。全然だいじょぶ。ありがと」
 話を逸らされて心底ほっとした。そう言われて、包帯を巻かれた手を握ったり開いたりしてみる。どちらもスムーズにできた。包帯巻くのうまいねって言いそうになって、慌てて口を噤む。
 ……好きで上手くなったわけではないだろう。
「俺のことより、エドワードは大丈夫なのか? 前の怪我、酷そうだったけど……」
「……?」
 通じなかったのだろう。救急箱の蓋をしながら首を傾げてエドワードが俺を見上げ、俺はその脇腹に指先だけで触れながらもう一度聞いた。
「怪我。エドワードは、大丈夫?」
 こっちに来る前に、確かその辺りにエドワードは酷い怪我を負っていた。今のでエドワードも理解したのだろう、そっと俺の手を外しながら、薄く微笑む。
「……大丈夫だ」
「ほんと?」
「ああ」
 エドワードの大丈夫はあまり信用できない。俺と違って顔にも出ないから、確認したって結局真偽はわからない。疑わしそうな俺を見て、エドワードは苦笑した。
「本当に大丈夫だ。なんなら見るか?」
「うん」
 心配するあまり、俺は何も考えずにエドワードの申し出に頷いてしまった。けれど俺が頷くと、え、とエドワードが戸惑ったような声を上げる。その顔にさっと赤みが差すのを見て、ようやく俺もはっとした。
 う、うん。いや、そりゃそうだ。腕とかならともかく、脇腹を出すってのは、抵抗あるだろう。
「あ、あの、違うよ。違うっていうか、変な意味じゃないから。心配だっただけで……!」
 慌てふためく俺を見て、今こそ笑ってくれればいいのに、赤くなって俯いてしまったエドワードに俺はさらに慌てた。
 でもひとつ解った。エドワードってよく俺をからかってくるけど、いざ俺が困らなければ自分が困るようである。……今この状況でそれを知っても、俺が困るだけなんだけど。
「ちょ、あの……ごめん。別に、嫌ならいいから」
「……嫌というわけでは、ないが……」
 真っ赤になってエドワードがそんな風に答えるもんだから、吹きそうになった。変な意味ではないにしろ、そんな言い方、……へ、変な期待をしそうになるじゃないか。
 でも彼女が口にした理由に、そんなこと考えていたのを忘れる。
「見たら、私を傍に置きたいとは、きっと思わなくなる」
「そ、そんなことあるわけない!」
 思わず叫んでしまった。それだけ気にするってことは、エドワードにとってよほどのトラウマなんだろうとは思うけど。でも俺にしてみれば、そんなことは気持ちが変わる理由にはならない。……それに、俺は既に一度見たことがあるのだ。
 エドワードと彼女の婚約者との確執を見て憤っていた俺に、彼女はその傷を見せて、こんな女は誰だって嫌がると言った。
 そのときも俺はそれを否定したけど、エドワードの中ではまだ決着がついていなかったみたいだ。
「あのときは、見て君が納得するならそれでいいと思った。でも今は……嫌われたく、ない」
 脇腹をおさえながら、別人みたいに弱々しく、エドワードがそんなことを呟く。
 ……いつだって、エドワードは凛として強くて、誰の助けも借りず、一人でどんなことでも受け止めて、なんとかしてしまう。だけど、それだけが彼女の全てじゃないんだって――あの傷を見た日、俺は知った筈なのに。
 それなのに、俺が弱いから、今でもすぐ彼女の強がりに甘えてしまう。
「……嫌われそうなのは俺の方だよ。あのときから強くなるって、俺が守るって言ってるのに……いつも肝心なときに、駄目で……」
「咲良は強い。君は私にない、私がずっと欲しかった強さを持っている。いつでも私の欲しいものをくれて、私を絶望から守ってくれる」
 自嘲するばかりの俺なんかを、エドワードは眩しそうに目を細めて見る。俺が、エドワードを見るのと同じような目で。
「私の方が、肝心なときに何も言えない。君が私の元を去ったときも、会談の後も、元の世界に帰るときも、そしてさっきも。素直に、行かないでと言えば良かった」
 そう言ってエドワードは微笑んだけど、その目にはまた涙が溢れていた。
「私も咲良が好きだ。君がいない世界では生きていけない。だから私はここにいるんだ」
「…………ッ」
 泣きながら微笑むエドワードを見て、何か色んなものが吹っ飛んだ。
 もう、我慢も限界だ。
 無意識に伸ばした手が触れてしまえば――後はもう止まれなかった。

 ……その後どうなったかというと、別に、どうもならなかった。
 カレシと喧嘩別れした姉ちゃんが不機嫌に帰宅して、止まらざるを得なくなった俺は、以後二度とシホウに待てはさせないと心に決めた。
 そんなわけで、相変わらず何の進展もないまま日々は過ぎていく。

 でもそんな当たり前の一日が、そこにエドワードがいることが当たり前になった日常が、俺にとっては何よりのしあわせだ。