6.ココアと不安



 その夜、俺はなかなか寝付けなかった。
 自分の部屋も、自分の布団も、とても寝心地はよくて睡魔は襲ってくるけれど、でもそのまま眠ってしまったらヴァルグランドで過ごした記憶も、エドワードも、全部夢物語になってしまいそうで怖かった。
 眠ってしまいそうになっては飛び起きて、そんなことを十回も繰り返すと俺は眠ることを諦めた。どうせ明日から春休みだし、眠れなかったところで差し支えない。
 でも、起きて電気をつけたところで、することなんてない。エドワードが気になるけれど、だからって姉ちゃんの部屋に侵入する勇気は俺にはない。侵入して、何がしたいというわけでもないし。ただ、エドワードがちゃんとそこにいるってわかれば安心できるかもしれないけど、でも結局離れてしまえばまた不安になるし。
 何かものすごく、彼女に依存しているような気がした。向こうの世界で離れたときも、ずっとエドワードのことばっかり考えていたし。子供じゃあるまいし、いい加減にしろと自分に言いたい。
 でも、言い訳するわけじゃないけど、それはエドワードが別世界の人間だからだ。同じ世界で、例えばクラスメートとかなら、ここまで不安にはきっとならない。向こうの世界で過ごした日々も、彼女自身の存在も、酷く現実感を伴わないから怖い。  俺は重いため息をつくと部屋を出て、音を立てないようにキッチンまでいくと、コップに水を注いで一気飲みした。ますます目が覚めただけだった。こんな調子で、俺、明日から大丈夫か。
「咲良」
 ぼんやりしていると、突然呼ばれて俺はびくりと肩を跳ねさせた。でも、驚くのとは逆に、とても心は落ちついていた。多分、今いちばん聞きたかった声を聞けたから、だと思う。
「あ……ごめん。起こした?」
「違う。私も眠れなかっただけだ。それと、音や気配には敏感なんだ。軍人だからな」
 言いながら、エドワードがダイニングの椅子を引く。そして腰をおろしてから、言い直す。
「……いや、元軍人、か」
 複雑な顔をするエドワードに、何と言っていいかわからない。でもそれ以前に、今すんなりと会話が通じたことを怪訝に思ってまじまじと彼女を見ると、それに気付いたのだろう、エドワードはふっと笑った。
「言っただろう。言葉が通じなくても、君が何を言いたいかはわかる」
「――敵わない、な」
 小さく呟いて、俺は使っていたグラスをゆすぐと、しまう前にそれを使って、飲み物を飲むジェスチャーをしてみせた。
「何か飲む?」
 通じなかったわけではないだろうが、エドワードが悩むように俯く。俺も少し迷ったけれど、返事を待たずに冷蔵庫を開けた。何かしてないと間がもたなかったし、飲まないならそれでもいい。
 俺が普段牛乳しか飲まないせいで、冷蔵庫には牛乳しかなかったけど、確かココアがあった筈だ。
 鍋を使うと洗いものが面倒なので、レンジを使ってココアを作り、エドワードの前に置く。彼女はしばらく俺とココアを見比べていたが、やがてマグカップに口をつけると、目を輝かせてこちらを見た。
「旨い」
 そういえば、エドワードは甘い物が好きだったな。彼女が喜ぶのを見てほっとしながら、俺も隣の椅子を引いた。けどそこからどうすればいいのかわからなくなって、結局間が持たなくなる。何を話しても言葉が通じないのだからもどかしい。
 しばらく、エドワードがココアを啜る音だけを聞いていたけど、それを飲みほしてしまうと静寂が訪れた。
「……不思議だな」
 ややあって、エドワードがそんなことを呟く。
 え、と聞き返すと、彼女はこちらを向いて、また少し複雑そうな表情をして、それから微笑んだ。
「今が不思議だ。眠ってしまったら、全部が夢になってしまいそうで……怖い」
「俺も、同じこと考えてたよ」
 胸のうちを代弁するかのようなエドワードの言葉に、思わずそう呟いていた。
 そして少しほっとしていた。エドワードがそれを、怖いと言ってくれたことに。夢であって欲しいと思っていないことに。
 急にふわりと肩にぬくもりを感じてそちらを見ると、エドワードがもたれるようにして俺の肩に頭を乗せていた。触れあっていることにどきりとして、鼓動が早くなる。
「……早く、君とちゃんと話ができるようになりたい」
 エドワードが喋るたび、鼓動がさらに加速する。抱き締めてしまいたかったけど、もし家族が起きてきたらどうしようとためらっているうちに、温もりは肩から離れていった。
「そろそろ、戻る。楓さんが心配するかもしれないし」
 カップを持って立ち上がり、エドワードがそれを流しに置く。引き止めたかったけど、引き止めて何ができると言えば何もできない。でもただ、一緒に居たかった。
「ありがとう、咲良。……また、明日」
 けどどのみちそんな我儘を伝える方法もなくて、うん、と頷くしかできない。でも、また明日という言葉が少しだけ、胸の不安を拭ってくれた。
 片時も離れないのは無理だけど、でも明日になったらまた会えるんだ。これで二度と会えないわけじゃない。世界に隔たれてしまったわけじゃないんだから。
 そう自分に言い聞かせて、俺はエドワードを見送ると、自分も部屋に戻った。
 肩の温もりを思い出すと、それからはすっと眠りにつくことができた。