3.波乱の帰宅



 かくして、俺は久々に自分の家に帰ってきた。
 家族からしてみれば帰りがいつもより遅い程度だろうが、俺的には数カ月ぶりだ。向こうに行ってる間、ホームシックになったことはなかったが、いざ帰ってみるとなんだかすごく落ちついて、目の奥がジンとした。
 とか、感傷に浸っている場合じゃなくて。
 ちらりとエドワードを振り返る。
 俺にはまだ、彼女を養い守って行くだけの力はない。だから、今は親に頭を下げるしかない。せめて俺が大人になるまで、ここにエドワードを置いて欲しいって頼まないと。
「もしかして、咲良の家?」
「そうだよ」
 頷いてから、俺は彼女の手を引いた。だがソッコーでその歩みは阻まれた。俺の前に飛び出してきた、茶色のふさふさに。
 そいつはワンワンと嬉しげに声をあげて、俺の足元で尻尾を振る。
「あぁ……シホウ。俺今忙しいから」
 飼い犬のシホウである。メスの柴犬で六歳。由来は合気技から。変な名前と周囲に散々言われるが、コキュウナゲとかイッキョウとかよりは呼びやすくてカッコイイと思う。
 久々にシホウと戯れたい衝動はあるが、それはひとまず後だ。そう思ってシホウの隣を行き過ぎるが、その瞬間に握っていた手がするりと離れた。
 振り返ると、エドワードが……シホウと思い切り戯れていた。
「咲良! こいつ凄く可愛い!!」
 かがんだエドワードに、シホウが飛びついて顔をペロペロ舐めている。エドワードはそれをまったく嫌がらず、シホウにされるがままになりながら夢中で頭を撫でくりまわして大変上機嫌である。それで俺は思いだした。
 エドワードは、可愛いもの好きなんだよな。
 後にしてくれという言葉を飲み込んで、エドワードを急かすのをやめる。笑い声を上げながら楽しそうにシホウと遊んでいるエドワードを見て、俺はシホウに心底感謝した。良かった。エドワードが辛そうじゃなくて。悲しそうじゃなくて。できれば、この笑顔を、俺があげられるといいんだけど。
 いや、できる筈だ。エドワードの中では、俺もシホウもきっと大差ない筈だ!
 俺が積極的なのか消極的なのかわからない妙な確信を得た瞬間、玄関の扉ががらりと開いて俺の肩がびくりと跳ねる。
「何してんの! 帰ってきたならシホウと遊んでないでとっとと入り――」
 活動的なショートカット、Tシャツにショーパンに健康サンダルをつっかけて、玄関を開けるなり俺を怒鳴りつけてくるのは言うまでもなく――異世界に行ってもまったくこれっぽっちも恋しくならなかった俺の姉、姫野(かえで)だ。
 だが姉はシホウと戯れるエドワードを見た瞬間言葉を切った。そして、エドワードが振り向く前に一度扉が閉まる。十秒たたずにまた扉が開いて、だがそこに現れた姉ちゃんはさっきと微妙に違っていた。髪をピンで留め、グロスを塗り直し、二―ハイにパンプスを合わせている。
「やだ、咲良。友達といるならなんでさっき言ってくれなかったのぉ」
 声のトーンが確実に一オクターブは上がり、俺は全身に鳥肌が立った。相変わらず外面だけはいい。というかこっちが素の姉ちゃんで、俺にだけピンポイントで優しくないと言った方が正しいかもしれない。
 それはともかく、極上スマイルでエドワードを見る姉ちゃんは、何かとっても誤解している気がした。そんなところに、とっても誤解した母さんの声が割って入る。
「あら……咲良ってばこんなイケメンな友達がいたのね〜」
 やっぱり誤解している。
 エドワードはイケメンではない。だけどそれ以上に、エドワードについては色々話さなければならないことがある。
「咲良、友達と遊ぶのもいいけど、遅くなるなら連絡くらい……」
 母さんの小言が耳をすり抜けていく。
 なんて言えばいいんだろう。その最初の一言を、俺はずっと探っていた。
 でも結局浮かばなかった。親が納得するようなうまい理由も。エドワードが何者なのかを上手く誤魔化すような都合のいい言葉も。ただでさえ嘘が苦手で口べたな俺に、そんなこと最初から無理だったんだ。
 それに思い当ったとき、俺は無意識に膝をついて、地面を頭につけていた。もう母さんや姉ちゃんの顔は見えないけれど、ぎょっとしているであろうことは想像に難くない。

「母さん、お願いします! 何も言わずエドワードをこの家に置いて下さい!」

 さすがにその一言では片付かなかった。
 とにかく入れと言われて、俺は立ち上がるとエドワードを連れて数ヶ月ぶりに我が家の敷居をまたいだ。
 ダイニングには三人分の夕食の準備が整っていたけれど、そちらではなく母さんはリビングに座り、テレビのスイッチを消す。
「で?」
 一言で説明を求められて、俺は母さんの正面に正座すると、放課後から今までの出来事をかいつまんで説明した。
 ただでさえ説明が下手だから、全くの意味不明になったと思う。
 屋上にいたらいきなり違う世界になって、そこでエドワードに助けられて、それで俺は今度は逆に彼女を助けたくて。
 そして彼女を連れて帰ってきたのだ――と。
 案の定、姉ちゃんは「何言ってるのコイツ」という目で俺を見下ろしてきたが、母さんは特に表情を動かさなかった。話し終わった俺をしばらくじっと見つめ、それからエドワードに視線を移す。
「……咲良の言ってることは、本当?」
 けれど、エドワードにはこっちの言葉がわからない。俺が何を説明してたのかだってわからない筈だ。困ったようにエドワードは視線を落とし、それから彼女が声を発した相手は俺だった。
「この方達は、咲良の母上と姉上……で、合っているか?」
「うん、そうだよ」
 まぁ母上だとか姉上だとかいう大層な人たちじゃないけど。エドワードの問いかけに頷くと、立ったままだった彼女は跪いて、それから俺を見て正座し直して、頭を下げた。
「私には貴方達の言葉が解らないのです。こちらの礼義も知らず、どうか非礼をお赦し下さい」
 エドワードの言葉を聞いて、俺を変人でも見るような目で見下ろしていた姉ちゃんが、驚いたようにエドワードを見て自分も座った。
「えっ、何語??」
 やっぱりそうか。エドワードがこちらの言葉を理解できないってことは、エドワードが話している言葉もこちらの人には通じないんだ。
「えっと……、エドワードはこっちの言葉が解らないんだ。礼儀も知らなくて、ごめんなさいって」
 簡単に通訳すると、母さんは疲れたようなため息を吐いた。
「……困ったわ」
「え?」
「適当なこと言うなって言いたいのに、あなたが嘘をつけないってこと誰よりも知ってるから、困ってるの」
 そう言って、もう一度深いため息をつく母さんが、なんだか急に歳を取って見えてしまった。
 うちは全員童顔傾向にあって、母さんも実際の歳よりすごく若く見える。姉ちゃんと姉妹に見られることもよくあるくらいだ。おまけに、ウエーブのかかった茶髪をまとめるシュシュも花柄のエプロンも、およそ三十代の主婦がつけるのはどうよという代物で落ちつきのない母だから、こんな風に思い詰めたような、疲れたような母さんを見るのは初めてだった。
「とにかくご飯にしましょう。今取り分けるから、あなたも食べなさいな」
 エドワードに向けてそう声をかけ、母さんは立ち上がると、戸棚から客用の茶碗を出した。