残像


「うわぁ……!」
 喧騒を縫って、アリーシアの歓声が響く。
「ヴァイ、ヴァイ! すごくたくさん人がいます! もう暗くなるのに!」
「こーゆーとこは、暗くなってからが本番なんだよ」
 アリーシアの興奮した声にヴァイトがぼそりと答えるが、例え喧騒がなくともそれがアリーシアに届くことはなかっただろう。すっかり元気を取り戻したアリーシアは、目の色を変えてわざわざ人の多いところへ突っ込んで行く。
「なんだかいいにおいがします!」
「おい馬鹿! 迷子になっても知らんぞ!」
 いくらアリーシアが風変わりと言っても、底抜けに目立つ抜けるような白を着ていても、この人ごみの中では無力だ。彼女の小さな体ではあっという間に人に飲まれてしまうだろう。
 間もなく陽が完全に落ちる。
 そうすれば、各所に仕込まれた松明が灯り、夜店と共に街を彩る。観光客はその夜店で酒とつまみを注文し、浮足立ってこの街の『名物』を見物しに行くのだ。ヴァイトも実際にそれを目の当たりにするのは初めてだが、アリーシアに言った通り、西ではこの街は有名であるし、往来の様子を見ればそれくらい容易に想像がつく。
 そして、そんな場所でアリーシアを野放しにすれば、確実に面倒事が起きるだろうことも想像するのは容易い。おまけに彼女は大金を持っているのだ。
 溜め息を吐いて、ヴァイトは仕方なく人の波にさらわれそうなアリーシアの小さな手を引いた。
「……ヴァイ?」
 手を引かれ、不思議そうな顔をしてアリーシアがこちらを振り向く。その肩で揺れる翡翠の髪が――
 一瞬、薄闇を彩る金色に見えた。

 ――ヴァイト、見て! 人がこんなにたくさん!

 聞こえるはずのない声が耳をかすめて行く。
 ちょうど、まるで今のアリーシアのように、普段は表情の少ない穏やかな顔を興奮一色にして。
 細い腕の絡まる、その感触までもがありありとよみがえった。

「きゃっ」
 
 遠くに行きかけた意識を、アリーシアの小さな悲鳴が引きもどす。
「おい、装飾が引っかかって服が破れただろうが。弁償しろよ」
 どうやら、観光客の一人とぶつかって因縁をつけられているようだ。柄の悪い男に凄まれて、アリーシアがおろおろとポーチを探る。それを見て、ヴァイトは舌打ちしながらそれを止めた。
「おい、よせ」
 自分にやったように、あの大金が入ったポーチをこんなところでぶちまけられでもしたら、どんなトラブルに巻き込まれるかわからない。
「払う必要はない」
「で、でも……」
 アリーシアは、男に絡まれて恐怖や委縮しているというより、本当に申し訳ないと思っている風だった。それを見て再び溜め息をつきながら、ヴァイトは男の方へ向き直る。
「弁償はしない。とっとと行け」
「おいおい、兄ちゃん。その態度はないだろう。こっちは服が破れちまったんだ」
「なら、破れた箇所を見せろ。その位置と形状がこいつがつけている装飾具と一致すれば、それを繕う針と糸くらいはくれてやる」
「ふざけたことを――」
 小馬鹿にした物言いに逆上した男が、ヴァイトの胸倉を掴み上げる。だが、その手はすぐに震えて、滑り落ちることになった。ヴァイトが冷えた一瞥をくれながら、剣に触れたそれだけで。
 毒づいて去っていく男を、アリーシアがぽかんとして見送る。
「どうしたんでしょう?」
「自分が蛇の前にいる蛙だと気付いただけだ」
「??」
 アリーシアが眉根を寄せて空を睨む。わかっていないだろうことはわかったが、別にそんなことは理解してもらう必要はない。だが他に理解させねばならないことは山ほどある。
「アリー、人前で簡単に金を出すんじゃない」
「なんでですか?」
「今は理由まで理解しなくていいから、とにかく俺の言うことを聞け。護衛を引き受けた以上、最低限の働きはするが余計な面倒事はごめんだ」
「……理由を理解しなければ同じ間違いをすると思います。それに、ただ従ってればいいって、私は子供かお人形ですか?」
 そういう切り返しが来るとは思わなかった。
 はっと口を噤むと、アリーシアは泣きそうな顔をしていた。その表情は、悲しみを越えて悲痛なもので、言い訳しようとした声すら凍る。
「ごめんなさい」
 それでも、最初に会ったときと同じように、詫びたのは彼女の方だった。
「迷惑するのはヴァイですもんね。ごめんなさい。私いつも一人でいたから、ヴァイのこと考えていなかった。言うこと聞きます」
 取り繕うような笑顔が痛々しい。
 もうそこに、『彼女』の面影はすっかり消えてしまっていた。そもそもあんな興奮した顔などたった一度見せたに過ぎない。『彼女』は時として涙を見せても、一度口にしたことを曲げたり、撤回するようなことは絶対になかった。後で過ちだと気付くくらいなら、最初から行動しない。そんな(ひと)だった。
「……アリー」
「ねぇ、ヴァイ。どうして皆さん、あっちの方に行くんですか?」
 人ごみは、さっきよりはいくらか緩和されていた。それは、ここが『通り道』に過ぎないからだろう。人並みが向かう小高い丘の方を見上げて問いかけるアリーシアに、ヴァイトは言おうとしていた言葉を飲み込んで答えた。どうせ口にしたところで、うまくは言えなかったろうし、気まずい空気を払おうとしたアリーの気持ちを汲んだのだった。
「この街の名物を見に行こうとしているんだ。あの丘は『ドラゴンズヒル』と言って、実際にドラゴンの背の上だと言われている」
「背中にたくさん人がいても平気だなんて、大人しいドラゴンなんですね」
「逆だ。凶悪過ぎたが為に、エ・タンセルの神子(ディーユ)がここまでおびき寄せて封印した。ずっと昔の話だがな」
 そんな伝説を教えてやると、あからさまにアリーシアは顔色を変えた。
「神子が……封印?」
「ああ。伝説みたいなものだが、実際にあの丘ではドラゴンの鱗が見られたりするらしい。それがこの町の名物ってやつだ……アリー?」
 触れている手が小刻みに震えだして、ヴァイトは怪訝そうな声で名を呼んだ。体調は戻ったはずなのに、また顔色が悪くなった気がするのは、単に暗くなったからそう見えるだけなのだろうか。
「行きましょう、ヴァイ。この街を出ましょう。早く!」
 切羽詰まった叫び声がヴァイの耳を打った丁度そのとき、ぐらりと――
 大きく地面が波打った。  



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