疾走


 風が耳元で唸りを上げる。だがそれに負けじと、ヴァイトは声を張り上げた。
「お前は馬鹿か!!」
 魔法車の壁面にへばりついたアリーシアに覆いかぶさるように、ヴァイトもまた魔法車にしがみついていた。密着しているので、アリーシアがびくりと跳ねあがるのがよくわかる。いくら風がうるさくとも耳元で叫んだのだから驚くだろう。だがそれをわかっていても、叫んだことを後悔はしない。
 アリーシアは、突然、魔法車(トランティエ)を走らせてしまったのだから。
「だ、だって……。動かなくなったっていうから、動かそうとしただけです」
「勝手なことをするな! それになんだこの非常識な速度は! とにかく止めろ! 危ないだろう!」
 ぼそぼそと喋るアリーシアの声はほとんど風の音に掻き消されたが、例え彼女が何を言おうが、こっちの言うことは変わらない。立て続けに叫ぶと、アリーシアは頭を遠ざけた。
「ヴァイ、耳がおかしくなってしまいます!」
「頭がおかしいよりマシだ!」
「頭も耳もおかしくなったら困ります!」
 必死に叫ぶアリーシアは、頭がおかしいことは否定しなかった。だが自覚していればいいというものでもない。それに、否定しなかったからといって自覚しているわけでもないだろう。
「いいから今すぐ止めるんだ!!」
 この速度では中に入ることもできない。なんとか壁面の凹凸を掴んでいるので精いっぱいだが、それも既に手が痺れてきた。アリーシアなどはとっくに手が外れている。そのアリーシアをかかえながら魔法車にしがみつくのにも限界がある。
 だが魔法車の速度はどんどん増していて、この速度で振り落とされれば怪我では済まない。有無を言わさぬ口調で停止を呼びかけるが、アリーシアは小さく首を横に振った。
「……できません。力を増幅させることはできても、私は奪うことはできないんです」
「……ッ」
 ふざけるな、という言葉をすんでのところで飲み込む。これ以上叫んでも委縮させるだけだ。それに、アリーシアの声は、もうほとんど聞き取れないくらいに弱々しくなっていた。最初は反省しているのかと思ったが、彼女の顔色が酷く悪いのに気が付いてそうではなかったのだと知る。
「おい、アリー……っ」
 急に腕が重くなる。アリーシアが気を失ったのだ。いよいよヴァイトは焦ったが、急にがくんと魔法車の速度が落ちる。ふと足元を覗くと、輝いていた線路がその光を失っていた。
 充分に魔法車がその速度を失ってから、ヴァイトはアリーシアを抱えて飛び降りた。ほどなくして、魔法車も停車する。
「なんなんだ、こいつは……っ! 面倒尽くしじゃないか!」
 腕の中でぐったりするアリーシアに、思わずヴァイトは毒づいていた。

 気を失ったアリーシアを背負って、ヴァイトが街に辿りついたのは夕暮れの頃だった。陽が暮れる前に街に辿りつけたのは幸いだった。魔物が出ないとはいえ、陽が落ちれば気温は下がるし、野宿の装備もない。瘴気の森では予定外の夜明かしをすることになったが、それはアリーシアの魔法おかげで事なきをえた。しかし今はそれも望めない。そのうえ彼女の顔色はどんどん悪くなっていて、早くちゃんとした場所で休ませる必要があった。
「何してるんだろうな、俺は……」
 宿の一室で眠るアリーシアを見下ろして、ヴァイトはそんな独白を零した。
 このまま、彼女をここに置いて東へ帰ろうと、何度思ったか知れない。その都度ヴァイトの心を引き戻すのは、だがアリーシアではないのだ。
「システィナ……」
「誰ですか?」
 知らず唇から滑り落ちていた名前に、そのこと自体にも驚いていたが、何より声を掛けられたことに驚いた。
 つい今しがたまで眠っていたアリーシアが起き上がり、金色の瞳をこちらに向けている。
「今の、名前ですよね?」
「気が付いていたならそう言えよ」
「ヴァイの声で気が付いたんですよ」
 相変わらず肌は白いが、少なくとも土気色ではなくなっている。頬にはほんの少しだが赤みも差していた。
「さっきまで死にそうな顔色だったくせに、回復が早いな」
「それは――」
 主に話を変える目的で揶揄すると、アリーシアは応えるように口を開いた。はぐらかせたことにほっとする。
「――ヴァイが傍にいてくれたからです」
 だがそんな答を聞けば、やはり罪悪感が掠めた。
 ヴァイトがアリーシアに同道するのは、彼女の為ではないのだ。だが誰のためなのか、何のためなのかと言われれば、ヴァイト自身にも答えられない。ひどく汚れてもつれた自分の心に、すっと真っ直ぐに差し込んでくるアリーシアの声が痛かった。
「好きでいたわけじゃない。この街の宿がどこもかしこも馬鹿高いから、自分の部屋を取れなかっただけだ」
「ご、ごめんなさい。私、ヴァイに護衛代を払っていませんでしたね。それに、倒れたせいで迷惑をかけました」
「……いい。実は、俺の手持ちではどこの宿でも一部屋すら借りられなくてな。ここを払ってくれれば護衛代はもういい」
「そんなわけには――」
 身を乗り出すアリーシアがこちらの申し出を断ろうとしているのがわかって、ヴァイトは片手でそれを制した。
「いや、実際ここの一泊料金は俺が貰ってる護衛代の相場よりずっと高い」
「……なんでそんなに、ここのお宿代は高いのでしょうか?」
 それを聞いて、アリーシアが素朴な疑問を口にする。恐らく彼女は金の価値を知らないだろうから、説明しても分かるかどうかは不明だったが、ヴァイトは簡単に理由を答えた。
「観光地だからだよ。人が大勢集まるからだ」
「観光?」
「ドラゴンズヘヴン。西では有名な街さ」
 アリーシアが事情を理解したようには見えなかったが、ヴァイトはそんな風に話をまとめた。



前の話 / 目次に戻る / 次の話

Copyright (C) 2012 kou hadori, All rights reserved.