黎明


 時が止まったような錯覚を覚えた。
 周りの風景も何も頭に入ってこない。『彼女』のことすら今は頭になかった。こうしてちゃんとアリーシアと向き合ったのは、出会ってから今が初めてではないかと思う。
 ――いや、ちゃんと他人と向き合ったこと自体が、随分と久しぶりかもしれない。
 けれど、交わった視線はアリーシアの方から逸らされた。彼女の目に光が宿ったのは一瞬のことで、ふっと糸が切れたようにアリーシアの体が崩れ落ちる。
 それを見たヴァイトは、反射的に走り出していた。今といいさっきといい、それが自分らしくない行動であることも、今は考えられなかった。ドラゴンの生命力でも回復しきらなかったとすれば、今近寄れば自分の生命力が吸収されてしまう。それもわかっていて、アリーシアの小さな体を支えたが、さっきのような脱力感はもう感じなかった。
 代わりに、小さな小さな衝撃が胸を打つ。見下ろすと、大きな瞳いっぱいに涙を湛え、それをぼろぼろと零しながら、アリーシアが小さな拳でこちらの胸を打っていた。
「……エリオーシュ……!」
 その唇が紡ぐのは、やはり知らない名だった。恐らく、さっきほど口にした者と同じ人物だろう。黙って叩かれてやりながら、ヴァイトもまた口を開く。
「……誰だって、聞いた方がいいのか?」
 静かな声が落ちると、アリーシアははっとしたように手を止めた。宿でアリーシアが目覚めたときとまるで逆になる。だがそれは特に驚くべき偶然ではなく、互いに互いのことを何も知らないのだから当たり前のことだ。
 故郷も家族も恋人も、そう呼べる人がいたのかすらも、何も。敢えてヴァイトがそう問いかけたのは、自分も同じだと、暗に伝えたいからだった。それに彼女が気付いたかはわからないし、気付かなくてもいいと思っていた。どの道それは知る術のないことで、俯いたアリーシアはやがて低く、くぐもった声を上げた。
「弟です。死にました。私が殺しました」
「……」
 アリーシアから出たのは、およそ彼女には似つかわしくないような言葉だった。あまりにこの少女と釣り合わなくて、理解するのには時間が掛かったし、理解してもとても信じられなかった。
 何と言葉をかけていいのかわからず、わかるのは考えても正解の言葉はないということくらいで、黙っているとアリーシアは突然こちらの手を跳ねのけて立ち上がった。そしてドラゴンの方へと歩いていく。
「アリー。少し休んだ方がいいんじゃないのか? また疲れて倒れるぞ」
 白い背にそう呼びかける。
 ドラゴンの巨体は、いまや半分以下になっていた。巨大化したフラガラックも元の大きさに戻り、ドラゴンの背に突き立っている。アリーシアは首だけでちらりとこちらを見たが、それだけで、立ち止まらずにドラゴンの頭の傍まで歩み寄った。
 半分以下といっても、それでもまだアリーシアよりは一回りも二回りも大きい。瀕死のアリーシアを甦えらせるほどの生命力を吸い取られた上にフラガラックが刺さっているとなれば、容易く動けるはずはなかったが、それでもヴァイトは警戒してアリーシアの後を追った。
「封印が解けたのは多分私のせいです。私のせいで、この街は――」
「俺が見た限り、死傷者はいなかったと思うし、街の被害もそんなに大きくない。この程度で済んだのは、むしろお前のお蔭だろう」
「ヴァイがいなかったらどうなっていたか分かりません」
「俺がいなければお前はここまで辿りついていない。そう考えるとこの街の被害は俺のせいとも言えるな」
 淡々と答えるヴァイトに、アリーシアは目を見開いて振り返り、だが開いた口はなんの言葉も結ばなかった。そう返ってくるのは予想外だったのだろう。
「……仮定の話なんぞしても言葉遊びにしかならない」
「でも……、でも……」
 返す言葉を失い、アリーシアは子供がぐずるように、「でも」を繰り返した。そして結局何も言えないまま、またヴァイトに背を向け、ドラゴンの方を向く。――否。
「……フラガラック、主の元へお帰りなさい」
 彼女が語りかけたのはドラゴンにではなかった。そして、それを受けて、フラガラックはあっさりとドラゴンの背から抜け、ヴァイトの手へとひとりでに戻って行った。さすがにこれには度肝を抜かれて今度はヴァイトが言葉を失くす。

『我、アリーシア・クラフトキングダムが盟約の元、汝に命ずる。我に従い、我が呼びかけに応えよ。汝の名は――』

 その間にアリーシアが何事かを呟き、ドラゴンに触れる。その途端、触れた場所から金色の光が溢れだし、ドラゴンとアリーシアを包み込んだ。その眩しさにヴァイトが目を覆い、そしてそれが収まる頃には、アリーシアはドラゴンの背の上にいて、空に舞い上がっていた。――ヴァイトを残して。
 そのときアリーシアの意図を悟って、ヴァイトは舌打ちした。
「……っ、おい、ふざけんな! 俺は用済みか!?」
「あのまま、ヴァイの命で私が助かっていたらと思うと……怖くて仕方ないんです。震えがまだ……止まらなくて……」
「それも仮定の話だ! 俺は生きてるしお前も生きてる。それでも仮定の話がしたいなら、これからもそうなるって仮定しろ!」
「ヴァイ……」
 ぽつりと、頬に水滴が落ちた。雨かと思ったが、夜明けの空には雲ひとつない。登り始めた太陽が放つ陽光を遮ってドラゴンは二・三度旋回すると、やがて降下して目の前に降り立ち、その背から、白い服の少女が地面に下りた。
「ヴァイ……、あの……、あの……」
 少女が懸命に言葉を紡ぐ。なかなか出ないその先を辛抱強く待っていると、やがて彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、てへ、と微笑んだ。
「どっちへ飛べばいいのか……分からなくて。だから、あの……」
「最初から素直にそう言えよ」
 それは明らかに作り笑いだったが、ヴァイトはアリーシアの額にこつんと拳を当てて微笑んだ。



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