外伝3 暁に消える 3


 編みこんだ長い髪を背中で弾ませながら、ラルフィリエルは回廊を駆けていた。
 ランドエバー親衛隊隊長。それが今の彼女の肩書きだった。
 だから、仕える主君の元へ戻らなければならない。
 本来なら、親衛隊をまとめる立場にいる彼女が、今日という日に主君であるミルディンの傍を離れることはあるまじきことだ。だが彼女より直々に、席を立ったエスティ達を見送るよう言いつけられて、席を立てない彼女らの代わりにこうして城門まで来たのであった。
 足元に視線をおとしながら、ラルフィリエルは微かな笑みを零した。
(どこまでも――ひとの好い、お姫様だ)
 初めて対面したときから、彼女にとってミルディンという人物は、理解に苦しむ少女だった。
 ≪混沌を統べる者(カオスロード)≫と呼ばれ、畏怖されていた自分が剣を向けても、彼女の表情が恐怖に歪むことはなかった。それどころか尚、戦う術を持たぬ身で、恐ろしい程の闘志を叩き付けてきたものだ。かと思えば、同行を許し、共に戦うことを厭わず、そして何ももたなかった自分に道すら提示した。

「その剣を、棄てるつもりがないのなら。ランドエバーの騎士団に入りませんか」

 今思い出しても耳を疑う。本当に彼女がそう言ったのかどうか自信がなくなる。
 思わずそのときも、もう一度聞き直したことすら忘れて。

「何を……。私は、この国に剣を向けた者だ。この墓地に眠る民を手にかけたのは、私だ」

 悪い冗談としか思えない。しかしミルディンは相変わらず穏やかに笑うだけで、からかっているという風ではなかった。もとよりそんな人物ではないが。

 「だからこそ、です。わたしはあなたに贖罪を求めているわけではないわ。それによってあなたが許されると思っているわけでもない。この地であなたが剣を振るうことは、きっとあなたにとって楽なことではないでしょう。それでも良いというならば」

 再度、彼女は繰り返した。

「――騎士として剣を取りませんか」

 ラルフィリエルは、贖罪にも懺悔にも興味はなかった。それで救われるなどと思っていなかったから。そう――だからこそ、彼女の提示した道を受け入れたのかもしれない。
 元々、セルティ軍を統括していた彼女が、実力至上主義のランドエバーでトップまで上り詰めるのに、前隊長のエレフォ・レゼクトラの引退とも相まって、時間はかからなかった。最初のうちはどことなくぎくしゃくしていたミルディンとの関係も、その間に笑い合えるようにまでなった。
 今彼女がこうしてエスティ達の見送りを命じたのも、久しぶりに彼らと再会できたラルフィリエルに気を遣ってのことなのだろう。そう思うと自然笑みが零れるのだ。
 幸福を恐れて選び取った道だというのに、この場所も居心地は悪くない。
 だが、そう思うと――笑みは凍ってしまう。

 唐突に人の気配を感じたのは、丁度そのときだった。

 顔を上げたラルフィリエルの表情は、一瞬笑顔と同様凍りついた。
 それは、既に一般解放されている棟を過ぎたこの場所に、見覚えない少女がいることへの不審だとか疑問だとか、そういうものとは別に。
 真っ直ぐこっちを見上げていた真紅の瞳だとか、長い黒髪に。
 顔が似ているわけではなかったが、そんな風貌は、否応なしに彼女の頭によく知る少年を描かせた。
(エスティと、同じ……)
 口の中だけで呻く。
 回廊の向こうに立つその少女は、エスティと同じ、漆黒の髪と真紅の瞳をしていた。歳は7、8歳くらいだろうか、かなり幼い。ワインレッドのドレスを纏ったその様は貴族か王族の子供に見えなくもないが、このような髪と目の色をした招待客などラルフィリエルには覚えがなかった。リルステル大陸の人間は、その大部分が金髪、茶髪だ。ラティンステル大陸には黒髪の民もいるが、現在ラティンステルには国家など存在しない。
「……貴女は?」
 相手が子供だとしても、人に話しかけるのは未だに苦手だ。それでも見知らぬものを城内に放置しておくわけにも立場上いかない。特に今日は場合が場合である。他国の貴族や王族も多々この城に集まっているのだ。
 問うと、目を逸らさぬまま少女は、滑るようにこちらに歩み寄って来た――
 
 ――ざわり。

 瞬間、独特の"力"の片鱗が、肌を撫でる。ラルフィリエルが瞳に警戒を宿した刹那、目の前で立ち止まった少女は白い肌に映える紅い唇を動かした。

「貴女、カオスロードね?」

 微かな呟きを、ラルフィリエルが聞き逃す筈はなく、オーシャングリーンの瞳がいっぱいに見開かれ――
 少女とのすれ違いざま、ラルフィリエルの身体はぐらりと(かし)いだ。

「ラルフィッ!!?」
 
 シレアがラルフィリエルに追いつき、その姿を捉えたのは、丁度そのときだった――、倒れこむ彼女を見て、シレアの悲鳴が回廊にこだまする。
 駆け寄って伸ばしたシレアの手はラルフィリエルには届かずに、ブーケがばさりと床に落ちた。
 舞い上がった白い花弁に、黒髪の少女が手を伸ばす。その動作は酷く緩慢だったが、それでも丁度花びらは彼女の手の上に降りた。
「ラルフィ!? どうしたの、しっかりしてっ」
 ラルフィリエルの顔の横に膝を付いて、呼びかけ続けるシレアを、少女はしばし見つめていたが、やがてその声に駆けつけてくる足音が届くと、手の平から花びらを落として彼女は踵を返した。
「――待ってッ! あなたは? ラルフィに何を言ったの!?」
 見とがめてシレアが叫ぶ。振り返った少女を改めて見て、シレアも思わず息を呑んだ。
(黒髪に、赤目)
 別段、珍しいわけでもないのかもしれない。でも、そんな人物はエスティ以外にシレアも知らない。
「あなた、誰?」
 思わずシレアの口をついて出た言葉に、少女が応える。
「名を聞いているの? それなら、ユーヴィル。ユーヴィル・S・セレスト」
 見かけよりもずっと大人びた声と口調にシレアがぽかんとしている間に、空気に溶けるように彼女――ユーヴィルの姿は掻き消えていた。