外伝3 暁に消える 16


 ユーヴィルの嗚咽が収まると、いよいよ草原は水を打ったように静まり返った。
 だがその静寂とは裏腹に、精霊達がこの上なく騒いでいるのが、エスティには解る。
 精霊は実際に声を上げるわけではないが、世界を取り巻く魔に通じるものの流れ――即ち魔道の循環に歪みが生じて、その軋みと震えが、直接『力』を介して体に流れこんでくる。
 その『危険』を、体中で察していながら尚――エスティは動けなかった。
 イリュアの言うことも、頭では理解していた。彼女を罵るように呼んだ半面、自分も同じことを考えていた。
 でも感情がそれを許さない。理解しても納得できない。
「エスティ」
 呼ばれても、彼は顔を上げることができなかった。それがユーヴィルの声だから、余計に。
 ただ腕に伝わるラルフィリエルの体温だけが、この場から逃げ去りたい自分の心と体を、ここに繋ぎとめていた。そしてエスティはそれに感謝していた。逃げてしまいたいが、そうすれば多分一生後悔するだろう。その答えは、あまりにも無責任で、あまりにも何の解決も成さず、あまりにも意味がない。
「エスティ」
 再び呼ばれる。だがエスティが顔を上げたのは、呼ばれたからではなかった。ユーヴィルの髪に触れたままだった手に、何かが触れたから。顔を上げてそれを確かめると、触れていたのは、ユーヴィルの白く小さな手だった。だが、その手には何の温かみも感じない。
 彼女は生きていない。血が通っていない。ただ具現した肉体に過ぎず、彼女という肉体はとっくに朽ちているのだ――
 エスティが、ユーヴィルの髪に触れたのは、肌に触れたくなかったからだ。そこに温もりがなければ、彼女が生きていないことから目を背けられないからだ。
 そのことに気付いて、エスティは歯噛みした。自分の心は認めているのだ。ユーヴィルを救えないことを。なのにそれに気付かない振りをして、決して実現できないことを、自分の力ではどうしようもないことを、無責任に彼女に言い聞かせたのだ――
「……エスティ。いい加減に、返事してくれないかしら?」
「――あ」
 三度名を呼ぶ声は溜め息交じりで、返事とは言い難いがようやくエスティはそれに応えた。
「私は、自分が助からないことなんて知ってるわ。だからこそ、私は――羨ましかったのね。カオスロードが」
 視線を向けられて、ラルフィリエルはうなだれた。だがそんな彼女に、ユーヴィルは僅かに口元に微笑を滲ませた。決して友好的な笑みではないが、かといって敵意も混じらない、ラルフィリエルに向けられたのはそんな表情だった。
「でも、私があなたのことが憎らしいのは、あなたが幸せに生きているからではないの。幸せに生きているのに、それを受け入れようとしないからよ。それは、生きたいのに生きることの叶わなかった全ての者への冒涜だわ」
 下を向いたまま、ラルフィリエルは双眸を見開いた。
 驚きに勢い良く顔を上げると、ほんの一瞬だけ、ユーヴィルの穏やかな笑顔と目が合った。だがすぐにユーヴィルは、エスティの方へと視線を戻していた。
「それで苛立って、素直になれなかった。それだけのことで――、私は貴方に、私を消して欲しかったの。本当にそれだけのことなのよ。でも、力をうまく制御できなくて、騒ぎを起こして、余計引っ込みがつかなくなって」
 ユーヴィルは、もうすっかり平静を取り戻したようだった。自嘲的に語る彼女の声と言葉を、エスティ食い入るように聞いていた――だから、気付くのが遅れた。乱れた魔道の流れに、かすかに干渉が起きたことを。
「だけど、最初から、こうすれば良かったの」
 ゆらり、とユーヴィルの姿が揺れる。そしてやっと――エスティは気付いた。
 彼女を包むスペルの正体。
 (転送呪(テレポート・スペル)――!?)
 それに気付いて、同時にユーヴィルの意図にも気付く。
「ユーヴィル!?」
「大丈夫、人のいない、どこか遠い海まで飛ぶわ。そこまでは、制御してみせるから」
 ユーヴィルが微笑む。
 転送呪(テレポート・スペル)で、安全な場所で、暴発して消える気だと察し、エスティは歯を食いしばった。
「よせ! ……そんなことをするくらいなら、オレが――!」
「貴方は優しいから。消せないわ」
 少し哀しみが混じった笑みに、弾かれたようにエスティは印を切った。

 『我が御名において命ず。冥界の深奥に住まう冥府の主よ。我が魂を喰らいて――』

 だが、喉の奥からあふれ出す熱い塊に阻まれて、エスティのスペルを詠む声はそこで途切れた。
「エスティ――!?」
 力が抜けて崩れ落ちるエスティの体を支え、ラルフィリエルが狼狽した声を上げる。エスティもまた、血の溢れる口を押さえながら、急激な脱力感に戸惑っていた。
 狼狽したのは、後ろで成り行きを見守っていたリューンやシレアも同様であり、駆け寄ろうとした2人を、だがイリュアが止める。
「……消去呪(デリート・スペル)を使うことを、エスティくんの"心"が受け入れてないからよ。だから制御にどこか亀裂が生じている。そんな状態で禁呪を使えば、一方的に喰われてしまうのは当然。だけど、エスティくんにはそれ以上に"力"があるから、命に影響することはないわ。大丈夫」
 努めて冷静に、イリュアがそう説明する。だが、彼女にも危惧がないといえば嘘だった。

(――だけど、今までもエスティくんは、不安定な制御の元でも、力で押さえ込んで禁呪を成立させていた。それに限界が来たのなら、もうエスティくんが消去呪(デリート・スペル)を行使するのは――)

 だがどの道、今この場所でこの状況で、エスティが消去呪(デリート・スペル)を使うことは無理だろう。
 そう思って、万一に備えて発動しかけていた力を、だが、彼女は霧散させた。
 その必要も、なくなったことを察したからだ。
(でも、エスティくんはまた、傷を負う)

 吐血したことに驚きながらも、エスティは霞む視界にユーヴィルを捉えようとした。
 だが今や、彼女の姿は空に掻き消えようとしていた。姿を維持できなくなったのであろう――だが、消え入りそうな手を、ユーヴィルはそっとエスティへと伸ばした。

「自分を責めないで。私は貴方に救われたの。名を呼んで、触れてくれたそれだけで」

 ユーヴィルの指先が頬に触れた瞬間、何もかもが消えた。
 精霊の叫びも、魔道の歪みもなく、ラルフィリエルもリューンもシレアも、イリュアの姿も消えて、血の跡も苦痛も何も感じなくなった。
 ただ草原に自分とユーヴィルだけが立っているのを、超次元的にエスティは感じていた。
 否、正しくは、彼女は今まで見ていたユーヴィルとは異なっていたから、視覚によってユーヴィルの存在を感じたわけではない。だがユーヴィルであるとエスティは確信していた。理由などなかったが――
 20歳くらいの、紅茶色の髪と薄水色の瞳をしたその女性は、優しく微笑んでいた。
 頬に触れる指先は、温かかった。

「さよなら。もっと早く、貴方に会いたかった」

 哀しげな声に、エスティはどう応えていいのかわからなかった。そして、わからない自分が悔しかった。だがユーヴィルは満ちたりた微笑みのまま――、動けないでいるエスティにそっと口付け、そして消えた。


 とてつもない、精霊と、力と、大地の震撼に現実に引き戻されたときにユーヴィルの姿はなかった。
 まだ微かに震える大地に、エスティは、どこか遠くで暴発が起こったことを知った。