外伝3 暁に消える 15


 見た目通りの子供のように、ユーヴィルは泣きじゃくっていた。
 彼女のラルフィリエルへの羨望――即ち、生きること、愛されることへの羨望。
 それが今はありありと伝わってきて、やりきれなさを讃えた瞳でユーヴィルを見ると、ユーヴィルもそれに気付いて、ふっと表情を緩めた。彼女が膝を折ると、張り詰めていた力の緊張もまた緩み、背後で聞こえていたキメラの咆哮もやがて静まる。
「私は何もかも失くしちゃった……! でもガルヴァリエルの思い通りにならずに済んで、その子のように人を殺さずに済んで、それでも良かったって……! こんな力だけの、人じゃない存在になっちゃって、死ぬことすらできなくて、それでも……、それでも良いって……! なのに、その子は何も失くしてないじゃない! 新しい道を見つけて、仲間に愛されて、幸せに生きてるなんて……! 私、そんなの認めない!!」
 静かになった草原に、少女の嗚咽だけが響いた。泣きじゃくるその姿は、幼子が我儘を言っているかのようだったが、それと似たようでいてもっと重いものを含んでいる。
 そっとラルフィリエルから手を離すと、エスティは一歩彼女へと近づいた。
「……ユーヴィル。オレはラルフィを救えたとは思ってない。もっと早く気付けていれば、ラルフィは手を汚さずに済んだ。だけどそれができなかったから、こいつは一生消えない傷を負ってしまった。……オレが消してやれば、今もラルフィは苦しまなくて済んだのかもしれない。だけどそうしなかったのは助けたいからじゃなくて、ただのオレの我儘なんだ」
 自嘲するように呟くと、ラルフィリエルが驚いたようにこちらを見上げたのが視界の端に留まった。戦いが終わり、リューン達がこちらへ歩みよって来たのもまた、気配で知れる。
 そちらに視線を投げながら、エスティは言葉を続けた。
「リューン、お前いつかオレに言ったよな。助けたいと願っても、誰ひとりこの手に掴めないって」
 唐突に話を振られ、リューンが隻眼を見開く。だが戸惑いながらも頷くと、エスティは再びユーヴィルに視線を戻した。
「オレもそうさ。もっと力があれば、もっと早くガルヴァリエルを止められた。そうすればシレアは家族を失わずに済んだ。リューンは妹を失わずに済んだ。ラルフィも、剣など振るわずに済んだんだ。そして――お前も、何も失わずにすんだ」
 その場にしゃがみ込んで、エスティはそっとユーヴィルの黒髪に触れた。
「そんなこと考え出せば、後悔ばっかりでっかくなる。後悔したくなくてがむしゃらに剣を振るってみたところで、かつてこの地でオレは親友さえ失いかけたよ。――そんなオレだから、救いたいと願ったところで、そんなことできるのか疑問だらけだ。だけどできるのなら、オレはお前を救いたいと思う」
 髪に触れるエスティの手を、払いのけようとしたユーヴィルの動きは、瞬間、硬直した。
 何を言われたのか理解できずに、問いかけるように見上げてくる彼女の瞳を覗き込んで、エスティは微笑んだ。
「ラルフィを消して、自分も消えればお前は救われるか? オレはそんなのが救いだと思えない。お前の本当の望みだって、そんなことじゃない筈だ」
 動きを止めたまま、ユーヴィルの、既に涙に濡れた瞳から、静かに新しい涙が溢れた。それを拭うことも忘れるくらい、ユーヴィルはただ、幾筋も涙を流した。
「……エスティくん」
 誰もが固唾を呑んで2人を見守る中、だがイリュアだけが固い声で、2人の間に闖入する。
「気持ちは解るけど……その子は、もう」
 イリュアの表情は厳しいが、エスティの表情に諦めが宿ることはない。
「リューンだって生きてるんだ。なんとかなるかもしれないだろ」
 声は潜めたものの、負けじとエスティは言い返した。
 かつて、一度リューンも死んだのである。だがこうして今彼が生きているのは、彼の中にあるエインシェンティアが生命エネルギーになっているためだ。声を潜めたのは、その事実を知らないシレアに余計な詮索をさせたくないからであり、それを察したイリュアもまた、声のトーンを落とした。だが、そこから厳しさは抜けていない。
「リューンくんとは違うわ。彼はエインシェンティアを完全に制御していたし、ミラちゃんの治癒のおかげで肉体に全く損傷がなくて、かつラルフィちゃんの神としての力の片鱗を受けたから、奇跡みたいな確率で生きているのよ。ユーヴィルはもう何年も前に死んでいるし、力も暴発ギリギリまで暴走している。肉体も具現しているにすぎないのよ」
 諭すされてもなお反論しようとするエスティを遮り、ぴしゃりとイリュアは言い切った。
「彼女は依ですらない。消去すべき、ただのエインシェンティアよ」
「イリュア!!」
 あまりといえばあまりの彼女の言い様に、エスティが立ち上がり、怒りの声をあげる。
 険悪になった空気に割って入ったのは、リューンだった。
「イリュア。そんな言い方しなくても、エスは解ってるよ」
 いつもの穏やかな声でそう言われて、イリュアはそれ以上言い募るのはやめた。そして、
「……エスティくんに任せるわ。あなたにデリートシステムを継がせたのは、他でもない私なんだもの」
 自分に言い聞かせるように呟くと、彼らから身を引くように後退さった。
 それと同時にリューンもイリュアの後についてエスティから離れ、シレアもそれに続く。ラルフィリエルは躊躇いながら一歩下がったが、それ以上は退かずに、エスティの腕を掴んでいた。
 それを見つめながら、意を決したようにリューンがイリュアに囁きかける。
「イリュア。もしエスが決断できなければ……、暴発する前にシレアだけでも連れて、転移して」
「っ、馬鹿なことを」
 言わないで、とイリュアが叫ぶ前に、シレアが彼女を押しのけて、リューンの頬を平手で打っていた。
 ぱしん、と小さな音が、静かな草原に響く。
「……シレア」
「馬鹿にしないでっ! それじゃああたし、なんの為についてきたの!?」
 心底驚いたように目を丸くするリューンに、シレアが食らいつく。
 しばらく呆けたように打たれた頬を押さえていたリューンだったが、やがて小さく息を吐くと、うっすらと涙を溜めながらこちらを睨みつけてくるシレアの頭を、片手で軽く抱き寄せた。
「……ごめん」
 リューンが小さくそう言うと、イリュアは大きな溜め息をついた。
「エスティくんが決断できなければ、どうにか全員連れて転移するわよ。無理ならみんなでこの世界にさよならね」