外伝2 蒼天に契る 6


 混濁する意識を覚醒へと(いざな)うのは、懐かしい光。
 この光がいつも傍にあるから、どんなときも絶望だけはせずに済んだ。
「……ん……」
 ゆっくりと、ミルディンは目を開けた。
 香のいい薫りが鼻腔をつき、上品で滑らかな絹が肌に触れてくる。
 柔らかすぎず、勿論固くないベッドは至極寝心地がよく、高級なものであることがすぐにわかる。
 ただ豪奢なだけではなく、極限まで居心地の良さを追及したその贅沢な空間には、思わず状況を忘れて微睡みを誘われるが、もちろんそれに従うことはしない。
 ガバリと跳ね起きる。顔にかかる髪を払うとするりと指が通り、丁寧に櫛を通されたのだと解る。
 絹の感触が直に肌に伝わるのも道理で、纏っていた簡素なドレスはそこにはなく、下着と変わりないごく薄手の寝間着姿になっている。これもまた、王室育ちの彼女ですらあまり袖を通すことなどない上質な生地だった。
 ――目眩がする。
 いったい何だというのだろう――軽い頭痛を覚えて左手でこめかみを抑えると、手首で何かがシャラン、と鳴った。洗練された装飾のついた美しい腕輪。だがそれがただのアクセサリーでないことに、そこに施された文字を見てすぐに気付く。そしていよいよミルディンは蒼ざめた――
 古代文字だが見覚えがある。魔封じのスペルだ――
 封魔呪(サイレント・スペル)自体はとうに失われた古代の魔法だが、この手の魔法道具は現代にいたる今でも残されている。それは古代の遺物と言ってもいいが、古代秘宝(エインシェンティア)と呼ばれるには少々粗末なものだ。スペルを刻んで魔力をこめるだけで効力を及ぼすそれは、現代人にも作成可能なもので、効果を発揮するには、作成者の魔力が封じる者を越えていればよい。
 魔力を放出しようとすれば訪れる脱力感に、ミルディンは焦った。この魔具が如何ほどの価値があるものかは知らないが、古代の大魔術師が作ったものであろうと、その辺の術士が作ったものであろうとそんなことは最早関係ないことだ。この腕輪はちゃんと作動しているのだから。
 武器を使えない彼女にとって、魔力が封じられれば全くの無力にすぎなかった。
 虎の子の"召喚"の能力でさえ、召喚される者たちは自分の魔力を媒体にして具現を保つのだから。
 焦燥だけが募る中、しかし何とか彼女は冷静になるよう努めた。兎に角状況を把握せねばならない。
 ――おそらく、自分は攫われたのだろう、それも計画的に。
 そして、その黒幕はブレイズベルク――記憶の断片から拾った言葉によれば、そうだ。
 もっともそれは自分を攫った者が吐いた言葉であるから、信憑性はないのかもしれない。だが、嘘を言ってどうなるものでもないだろう。かどわかしが未遂に終わったのならそれも多少意味を持つかもしれないが、攫われてしまった今、攫った自分にそんな嘘を言っても詮無いように思える。
 そもそも、もうこの大陸にはスティンとランドエバーと、ブレイズベルクの3勢力しかない。スティン王アミルフィルドがこのようなことをする筈もなく、また気を失っていた時間はそこまで長くない様に思えたので、やはりここはブレイズベルク領の可能性が高いと思えた。
 また、時期と手際についても計画性を感じた。
 親衛隊長としてはそこそこに名高いエレフォ・レゼクトラが、先の戦で負った怪我の為に、やむなくその座を退いたのが半年前。勿論、その後任には彼女に勝るとも劣らないほどの有能な剣士がついたが、彼女はそもそもランドエバーの民ではない。実力至上主義のランドエバー騎士団だからこその大抜擢だった。だから外部の者からすれば、いくら傷を負ったといっても未だランドエバーではその名高いエレフォの引退は好機に思えた筈だ。
 しかしそれだけで事を起こしてくれれば良かったのに、黒幕はさらに慎重だった。
 昨日は実に半年振りに親衛隊長は非番であったのだ。それも、以前から決まっていたものではない。寸前に、故あってミルディン自らが直接に許可したものだ。このタイミングに事が起こったことを考えると、黒幕は虎視眈々と機会を窺い続けていたのに相違ない。
 ――そして止めには、あろうことか自室に侵入してきた。
 そこまでの警備を潜るには最も困難な選択肢でも、潜ってしまえば連れ去るのは最も容易。
 平時、自室で眠るときだけは、傍に誰かが付くことはないからである――そして、彼女の不在に朝まで気付くことはないだろう。
 そこまでざっと考えあげると、いよいよ危機的状況にあることが解った。だが、逆に混乱や不安は可笑しいほどに消えていき、この上なく冷静になっている自分に驚く。
 ――王家に生まれ育った彼女は、実はこのような経験は珍しいことではなかった。
 あの手この手で自分を利用しようとする輩は大勢いた。父は自分を充分すぎるほど大事にしていたが、だがそれでも決して民よりも娘を優先することはなかったから。そして娘も、それを理解し、そんな父を尊敬していたから。元老院が親衛隊を組織したのもそんな背景のためだ。国王は決して娘を過剰には扱わなかった。
 それでも、王女が心無い者の手に落ちることは決してなかった。それは――
「……アルフェ」
 無意識に口にした名に、だが彼女は強く首を振る。
 そう――どんなことがあっても、どこにいても、必ず彼は来てくれた。そして、護ってくれた。
 だから、今も甘えてしまう、そんな彼の存在に。
 (これじゃ、駄目だわ)
 兎に角ベッドを降りようとした、――その時。
 ノックもなく唐突に、扉が開く。
「――お目覚めでしたか、ミルディン女王陛下」
 丁寧だがどこか皮肉めいた言葉と、慇懃無礼な態度と、自信に満ち溢れた表情。
 それは初めて見る顔だったが、彼女にはそれが誰なのか、容易に想像はついた。
「居心地はどう? 大事な客人として、最高の待遇をしたつもりなんだけれど。……ああ、着替えさせたのは私の侍女だ、心配しなくていいよ」
 薄着の体をシーツで覆ったミルディンを見てそんなことを言う彼に、思わず我を忘れてふざけるな、と叫びそうになった。
 こんなことをして許されると思っているのか、人の名を呼んでおきながら自分は名乗りもしないなんて礼儀知らずも甚だしい、いくつもの罵声が浮かんだが、いずれも口にするのはこらえる。
「――失礼、まだ名乗っていなかったね。私は、ブレイズベルク公主、アトラス・ヴァル・ガド=ブレイズベルク。これから宜しく」
 少なくとも、外見上は友好的な笑みを浮かべてそう言った青年は、思ったよりもずっと若いが、想像していた通りの名を名乗った。