外伝2 蒼天に契る 16


 凍りつくような空気。それはもちろん寒さとかそういう類のものではなく。
 そんな緊張(プレッシャー)は、戦場で感じるそれとは微妙に異なるものだが、初めて味わうものでもない。
(ああ……あのときと同じだ)
 青年は胸中で独白する。
 背を向けた主のその背中は震えていて、それも『あのとき』と同じだった。
 違うのは、『あのとき』主はぶらんと下げた右手に短剣を握り締めていて、その先からは、真新しい鮮やかな赤い血が――

 ガシャンッ――――!!

 はっとして、青年が顔を上げる。
 ようやく我に返ったのに、主の右手が鮮血に染まっているのでまた青年は"あのとき"に想いを馳せそうになった。だが、状況はそんな場合ではないと彼に告げる。
 目の前の物事を把握するならば、自らの主君が素手でガラス張りの陳列棚を殴りつけた所だった。
「……キリ」
「は」
 抑揚の無い声で名を呼ばれて、青年は頭を垂れると短く返事を返した。
「ランドエバーを潰せ」
「……仰せの通りに」
 改めて命じられるまでもないことだった。だが再び顔を上げて主君の表情を伺うと、青年はその行動を後悔することになった。
 空気と同じ、凍りつくような表情。
 何も映さないガラス玉のような瞳。
「……そして、あのお姫様の首を、私の前に持ってこい。……いや、彼女だけじゃない。全ての国を、私の前にかしづかせてみせろ」
 狂気を放つ主の姿を、だが見つめる青年の瞳にも表情はなく。
 「仰せの通りに。アトラス様」
 青年はその空間から刹那の間に気配ごと姿を消し去った――

 定刻通りにぱちりと目が開く。
 ひとたび目を空ければしっかりと意識が覚醒してしまう動物のような性質を彼女は持っていたが、それでも眠くないと言えば嘘だ。
 生欠伸を噛み殺しながら、隣で寝ている妹を起こさないようリアはそっと立ち上がった。
 レジスタンスのアジト、とはいえ表向きはまっとうな宿屋だ。朝ごはんの仕込みをするためにリアの朝は早い。対照的に寝起きの悪いフィセアは、夜の片付けを任される代わり朝は割合遅めである。
 しかし、昨日はフィセアの機嫌がすこぶる悪かった為に結局リアも片付けを手伝っていたのだ。
(あーあ……不公平だよなぁ)
 頭を掻きながら薄暗い部屋を見回すと、父の姿は既に無かった。ベッドに横たわる母の容態を確かめると、昨日よりもはるかに良い顔色で、規則正しい寝息を立てている。
 ほっとした思いから、リアは思わず笑みを零した。
 だがすぐに頭を切り替えると手早く服を着替え、音をたてないようそっと部屋の扉を開けて、閉めた。顔を洗う為に小走りに洗面所へと向かうと、先客の姿を見つけてタオルを差し出してやる。
「早いね、アル」
 声をかけると、短い前髪から雫を滴らせながら彼は顔を上げた。
「ああ……お早う、リア」
「よく眠れた?」
 笑顔で言うと、青年は苦笑を返してきた。
「……おかげさまで」
 皮肉っぽく言う彼の目元にはうっすらと隈ができており、昨夜一睡もしてないのだと容易に解ってリアが腹をかかえる。そんな彼女の様子に、アルフェスは憮然としながらタオルを受け取った。
「まあ、仕事柄徹夜は慣れてる」
「ははは、良かったじゃん。で、女王様は?」
「……ぐっすりお休みですよ」
 アルフェスが肩をすくめると、いよいよリアの笑いには拍車がかかった。
 が、アルフェスにしてみればちっとも笑い事ではない。
 極度の緊張と不安から解放された安堵の為か、夕べミルディンはすぐに眠りに堕ちてしまったのだが、すぐ傍で無防備な寝顔を見せられたらたまったものではない。
 そっと部屋の外にでようとするのだが、ミルディンの手ががっちりと服の裾を掴んで離さなかった。
 そんな状況で、吹っ飛びそうになる理性を必死に手繰り寄せながら過した一晩は、どんな戦場で明かした一夜よりも長く、激しい戦いだったような気がする――
 熟睡したミルディンの手から解放されたのが、ようやく今しがた、という訳だった。そんな事情など知る筈もないのに、全て解っているように笑うリアに、リアクションに困って突っ立っていると、朝早くに似つかわしくないせわしない足音が耳に届く。
 はっとして振り返る前に、背中に思い切り衝撃を受けて、アルフェスは思わず前につんのめりそうになった。だがその衝撃の正体に気付いて、驚く。
「姫? どうし……」
「行かないでって言ったのに! 起きたらいないから、わ、わたし……」
 ぎゅう、とアルフェスの背に抱きつきながら、ミルディンが半泣きで訴える。だが気配に気付いて顔をあげ、そこにリアの姿を捉えると、彼女の動きはそこで凍り付いてしまった。
「え、えっとぉ……ごちそうさま? あ、じゃなくて、お、おはよ……」
 そんな彼女の様子に、何故か自分の方が気まずくて慌ててしまうリアであった。