7.

 弱くて血まみれの俺だけど、傍にいるからもう一度生きよう。
 動かない少女の頬に触れて、彼は魔法を紡ぐ。彼にのみ許された力で、彼女にもう一度、生きる力を与える為に。


 あのときと同じ雨の中をリューンは走っていた。
 何故走っているのかは解らない。どこに行って、何をどうしたいのかも解らないままでいた。ただ胸の奥から突き上げてくるような感情に、リューンは走らされていた。その感情は、
(……怒り?)
 気付いて立ち止まる。正確には、そんな一言で名前をつけられる感情ではなかった。それを冷静に分析するだけの余裕もなかった。感情を理解し、操る力を持ちながら、それはひどく滑稽なことに思えた。
 だが、平静を取り戻そうと目を閉じた瞬間、シレアの涙を思い出した。ボロボロになって、エスティに支えられていた彼女の姿がよみがえったとき、いてもたってもられず、またリューンは走り出していた。

 ――いつかあたしが好きな人を連れて来たとき、怒ってね? お前なんかに妹をやれるかって。

 前に、シレアがそんなことを言っていた。今がそのときなのだろうかと、走りながら思いをめぐらす。だったら、ライドリックを探さねばならない。どんな理由があるにせよ、シレアをあそこまで傷つけ、泣かせたことを怒り、兄として叱ってやらねばならない。

 兄として。

 ――オレとラルフィのときはあんなに煩かったのにな。

 次に頭をよぎったのはエスティの言葉だった。
 ラリフィリエルがエスティに想いを寄せていると知ったときは、それを応援する心より寂しさが大きかったのが正直なところだ。幼い頃に両親と死に別れたラルフィリエルにとって、リューンは兄であると同時に親でもあり、彼が全てだった。同様に、リューンにとっても妹であるシェオリオが唯一無二の家族だったのだ。その彼女が自分のもとを去り、他の男のもとに行くなど耐え難い寂しさだ。だが、悲しみはなかった。
 それはラルフィリエルがとても幸せそうだから。
 だから口ではなんと言っても――エスティは煩いと思っていただろうが――、心の中ではいつでも2人を祝福していた。

 ならば、ライドリックといて、シレアが幸せなら、それもまた祝福することができるのだろうか。
 今回の件が解決したなら、ライドリックを認めることができるのだろうか。
 ライドリックがシレアに好意を持っていることは最初からリューンには解っていた。最初見た彼は感情が麻痺していたというが、視線はいつもシレアを追いかけていた。だから、感情が欠落しきっているわけではないと、近く感情を取り戻すだろうとリューンは確信していた。――シレアの傍にいれば。
 そして、シレアもそんなライドリックを悪く思わないはずだ。同じような過去と痛みを共有できれば、傷も癒しあっていける。何より、血まみれである自分といるよりもずっと良いはずだ。
 ずっと、それこそを望んでいたはずだ。
 シレアが、自分のもとを去り、幸せになることを。

(シレアが――ぼくの傍からいなくなる)

 このまま、走り続けて、どこまで走っても、彼女がいない。
 朝起きて、おはようと笑いかけても、そこに彼女はいない。

 それは色のないモノクロームの世界。冷たく、暗く、行き場のない戦場のように。

 その瞬間、リューンには雨の音すら聞こえていなかった。走っている実感もなかった。そんな彼を唐突に現実に呼び戻したのは、人気のない公園に佇む少年の姿だった。
 漠然とライドリックを探していたものの、リューンは孤児院の正確な場所も知らない。そこに行けばライドリックに会えるのかも解っていなかった。それを知っていて走っていたのだから、本当はライドリックに会いたくなかったのかもしれない。 それでも、雨でひっそりと静まり返った街に、傘もささず立っている少年の姿は目を引いた。目を背けていた現実と怒りを呼び戻すくらいに。
 呆然と立ち尽くしている白髪の少年は、こちらに気付く様子はなかった。だがリューンは、そんな少年に駆け寄ると、怒りのまま、彼を殴りつけていた。
 あまり加減はしなかったので、ライドリックの細い体は簡単に吹き飛んだ。
 それを見ながら、リューンはそんな行動に出た自分に内心驚いていた。そんな心の内とは裏腹に、一度吹き出た怒りは鎮火することはなく、激情にかられるままリューンは倒れたライドリックに向かって叫んでいた。
「シレアに、シレアに何をしたッ」
 その言葉に、ライドリックが弾かれたように起き上がった。口からは血が流れていたが、それに構うこともなく、起き上がった彼もまた、リューンに向かって殴りかかってきた。
 だがその足取りは殴られた衝撃でおぼつかなく、それでなくとも戦場に身を置いていたリューンがそれを受け止めることは容易いことだった。だが、拳を受け止められてもなお、それを貫かんばかりの勢いで、ライドリックは拳に力を込めた。
「俺には、シレアが必要なんだ……ッ!!」
 それは嘘いつわりない、真っ直ぐで純粋な想いだった。
 マインドソーサラーだからこそ、誰よりもそれが解って、一瞬、リューンは怯んだ。だがそれに合わせたかのように、ライドリックの拳も、力なく滑ってゆく。
「シレアが誰を想っててもいい……! だから……お願いだ、シレア……」
 雨の雫に隠れているが、間違いなくライドリックは泣いていた。そして、その双眸はもうこちらを向いていなかった。
 彼のひたむきな想いを受けて、リューンは確信した。少年らしい荒々しさはあるが、この少年は根が優しい。だから、きっとシレアを大切にするだろう。全身全霊をかけて愛し、決して傷つけることはないだろう。そうも思えた。だが、それでも。
 崩れ落ちたライドリックを見つめて、ようやくリューンは冷静になれた。
 ――ライドリックがどんな人間であれ、例えシレアが彼に想いを抱いていたとしても、それで彼女が幸せでも。それでもきっと自分はそれを祝福できない。
 表側で祝福しても、心の中ではきっとできない。それはラルフィリエルのときと真逆の感情だった。
 だから、自分の中で、ラルフィリエルとシレアは違うのだ。

「ごめん。ぼくも――シレアが必要なんだ。譲れない」

 崩れ落ち、打ちひしがれるライドリックに向けて、リューンははっきりとそう告げた――。