6.

 天気の良い日なら、子供たちや井戸端会議のご夫人で賑わう公園も、今はしんとしずまり返っていて、人の姿は見当たらない。シレアは、ベンチに腰掛けると傘を閉じた。ベンチの上には木でこしらえた屋根があり、雨は入ってこない。もっとも、本来は日差しを防ぐためのものであろうが。
 その隣にライドリックが腰を降ろすと、しばらくの間、2人は他愛ない会話のやりとりをした。ベンチから見えるのは、雨に沈む暗い景色だけだったが、どんな話でもライドリックはとても楽しそうに聞いてくれたので、シレアは次から次に、色んな話を彼にしてやった。
 家族のこと、友人のこと、彼らとした旅の話。全てをありのままに話すには突拍子も無さ過ぎるので、多分に割愛、脚色はしたが、数年を孤児院で鬱々と過したライドリックには充分刺激的な内容だったようだ。
 やがて喋りつかれてシレアが大きく息をつく頃には、雨で暗い景色がさらに暗くなりかけていた。
「いけない。すっかり話し込んじゃった。っていうか、あたし1人喋ってばっかだったね、ごめん」
 シレアが済まなそうに赤面して頭を掻くと、ライドリックは心底楽しそうに笑った。
「いや、シレアの話、楽しかった。……シレアはすごいな。俺とそんなに歳が違うわけでもないのに、強いし、いろんなことを知っていて」
「う、ううん! あたし別に強くなんかないし、いつも皆のお荷物だったし……多分1人じゃなにもできないよ」
「そうかな。少なくとも俺は、シレアは強いと思うよ。強いっていうか……眩しい」
 自嘲的なシレアを、ライドリックは本当に眩しげに見た。ライドリックのそんな様子に、シレアは照れてうつむいたが、
「……俺、孤児院を出るよ」
 彼のそんな言葉に、再び顔を上げると彼の目を見つめ返した。
「ラディ」
「もうちゃんと口も聞けるし動けるし。俺に何ができるかわからないけど、働いて俺なりに生きていこうと思う」
 ライドリックのそんな言葉に、シレアはぱぁっと顔を輝かせた。感情を失っていた彼が、生きる決意をしてくれたことが何より嬉しく、思わずシレアはライドリックの両手をとって、握り締めた。
「うん! ラディならできるよ!」
 光が零れ落ちてくるような錯覚を覚える彼女の笑みに、ライドリックは空色の瞳を細めた。
「凄いよ、ラディ。そうやって自分で生き方を切り拓いていけるんだから、ラディの方があたしよりずっとずっと強いよ」
「……シレアのお蔭だよ」
 シレアの手をほどくと、ライドリックは彼女の体を抱き締めた。
 思いもかけない彼のそんな行動にシレアの心臓は口から飛び出るかと思うくらいに跳ね上がった。
 異性にそんな風に接されることは、シレアにとって初めての経験だった。
「ラ、ラディ?」
「だから、シレア。これからも傍にいて欲しいんだ。シレアが傍にいてくれれば、俺は何でもできそうな気がするんだ……」
 少し体を離して、ライドリックは真っ直ぐにシレアを見つめた。だがシレアは、その視線に応えられずにうつむいた。
(あたしは――)
 必要とされることは心地良く、また、女性として、男性に好意を持たれることに、純粋な喜びもあった。だが、素直にそれを認めて彼の想いに応えるには、無視できない大きな気持ちがあった。
 だけどそれは、決して満たされることのない想いだ。
 そして、とっくの昔に封じてしまった想い。
(あたしは……)
 意を決して顔をあげると、どこまでも澄み切った空色の瞳があった。
 同じ過去を持つ少年。自分を必要としてくれる少年。その存在は、今までちっぽけだと思っていた自分の存在を、確かなものにしてくれる存在だった。だから、一緒にいて居心地がいい。
 ただじっとその瞳を見つめていると、口付けられた。慣れない、やや乱暴な口付けだったが、その唇も腕も温かい。
 だから、身を委ねてしまおうかとも思った。
 だが、その瞬間、頭のどこかで"違う"と激しく誰かが叫んだ。
 その声を聴きたくなくて、現実の世界に神経を集中させると、代わりに耳に入ってきたのは雨の音だった。
(――雨――)

 俺も、雨、好きだ。シレアに出会った日が、雨だったから

 ライドリックはそう言ってくれた。
 同じ想いをシレアは知っていた。

 雨の夜は惨劇の日。だけど彼女は雨が嫌いではなかった。
 それは――――"彼"に出会えた日だから。

 だから、彼の気持ちには応えられない。
(あたしは……やっぱり……)

 お兄ちゃんが好きだから。


「――ごめん。ごめんラディ。あたしも、傍にいて欲しい人が、傍にいたい人がいるの。だから、……だからラディの傍にずっとは、いられない」
 ライドリックの胸を押し戻し、シレアは小さく、だがはっきりと言った。
 愕然とするライドリックの顔を見るのは辛かったが、シレアは目を背けることはしなかった。
「……誰……?」
 悲痛なほどかすれたライドリックの声とその表情に、シレアははぐらかすことも言い淀むこともできなかった。今自分にできることは、全身で彼と向き合うことだけだと思ったからだった。
「……お兄ちゃん」
 シレアの答えに、ライドリックは理解できない、というふうに首を振った。
「そんなの、変じゃないか! 兄妹なのに……!」
「……お兄ちゃんは、あたしを助けてくれたの。生きる力も記憶も家族もなくしたあたしに、記憶を操る魔法をかけて、あたしのお兄ちゃんになってくれた。お兄ちゃんは、血が繋がらないあたしを妹と思ってくれてる。だけど、あたしにとっては大切な人なの。だから……妹としてでもいい、お兄ちゃんの傍にいたいの」
「…………ッ」
 シレアの言葉に、ライドリックは全てを悟って唇を噛んだ。シレアとシレアの兄は血が繋がってはいない。兄妹ではないのだと彼女の言葉で知れた。そして、どこまでも自分とシレアは境遇が同じなのだと。誰かに救われ、その人を必要としているのだと。今自分がシレアを必要としているのと同じ様に、シレアには兄が必要なのだと。
「ごめん……」
 力なく俯いたライドリックに、シレアはもう一度謝罪の言葉を落として、立ち上がった。立ち去るつもりだと察したとき、ライドリックは弾かれたように立ち上がっていた。
「……それでも俺はッ……シレアが必要なんだ!」
 叫び、シレアにつかみかかる。その勢いで尻餅をついたシレアをライドリックはそのまま押し倒した。
 屋根から外れた2人には雨が容赦なく降りかかったが、どちらもそれに構う様子はなかった。また、シレアは押し倒されても嫌悪も恐怖も感じることは無かった。ただ、悲痛なライドリックの瞳を見るのが辛かった。
「ごめん……ごめんね。ラディ」
 雨に混じって涙が零れた。ライドリックの気持ちが痛い程解るから、余計に辛かった。
 その状態がどれくらい続いただろうか。実際は、ほんの数秒だったのかもしれない。だが、時が止まったかと思うほどの時間ののちに、ライドリックはふらりと立ち上がった。
 彼の気配が遠のいてしまっても、シレアは動けなかった。
 最初はラディを傷つけてしまったことが辛かったが、彼が去ってしまうと、もうひとつの気持ちの方がシレアを苦しめた。  いつかはこの想いも思い出に変わるだろうと思っていた。
(あと、どれくらい経てば思い出になってくれるんだろう)
 雨が服を濡らし、体温を奪っていく。だが、シレアはそれでも雨を温かく感じていた。
 
 あの夜が、あの雨が、数年経った今も色あせてくれない。

 シレアはのろのろと立ち上がると重い気持ちで家路についた。誰にも会いたくなかったが、帰らないと家族は心配するだろう。もうすっかり日は落ちていた。


「シレア!!」
 重い体を引きずるようにして家の近くまで戻ってくると、聞きなれた声が名前を呼んだ。
 顔を上げると、エスティとリューン、それにラルフィリエルまでもがこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
「帰りが遅いから迎えに行くところだったんだが……どうしたんだよ、シレア。ずぶ濡れじゃないか」
 近づいてみて、エスティはシレアが泣いていることと、髪や衣服が乱れていることに気付いた。
「……まさか、アイツになんかされたのか?!」
 エスティの声に怒りが滲んだのに気付き、シレアはそのまま飛び出していきそうな彼の体に慌ててしがみついた。
「違う、違うよ。あたしが……あたしが悪いの。ラディが悪いわけじゃないッ」
 しがみつかれて、エスティが押し止まる。だが、本当に飛び出していったのは、エスティではなかった。
「お兄ちゃんっ!?」
 雨の暗闇の中を駆けて行ったリューンに、驚いてシレアが後を追おうとする。だが、長く雨にさらされた疲労で、思うように足に力が入らず崩れ落ち、そのまま気を失ったシレアをエスティが支えた。
「……リューンのヤツ。昼間まで関係ねぇような顔してたのに」
 シレアを抱えて家に入りながらエスティが半眼で呟き、
「だいぶ、怒ってたな。兄さん」
 ラルフィリエルは兄が去っていった方を見つめながら複雑な笑みを浮かべた。