10.

 カーテンの隙間から差し込む光が、瞼を通して入ってくる。その眩しさに、シレアは目を覚ました。
 まだ店を開ける準備をするにも早い時間である。もうしばらくの間まどろみを楽しもうと寝返りをうったところで、だが、シレアの目と頭は冷水をかぶった直後のごとくに、ギンギンにさえまくってしまうのだった。それがもう数日続いている。
 ――数日前まで、シレアはラルフィリエルと相部屋だった。というのも、この家には部屋が2つしかないのである。
 当然のごとく男衆と女衆に別れて使っていたのだが、エスティとラルフィリエルが結婚してからは、それもどうかなという雰囲気にはなりつつあった。なので「これで万事丸く収まるな」とエスティが笑ったのは至極当然なことである。
 そういう訳で――
 隣で眠るリューンを起こさないように、シレアはそうっとベッドから降りた。
 兄妹として過ごしてきたから、2人で夜明かしするのも別に珍しいことではない。なのに、いざ同部屋になるとものすごく意識してしまってものすごく緊張する。一方リューンの方は何か吹っ切ったようにいつもどおりスカスカと寝ているので、シレアとしては何か釈然としない。この差に、不公平めいたものすら感じてしまう。
 ひたすらリューンを起こさないように、まるで泥棒のような慎重さで自分の着替えを探し、隅っこでダッシュで着替えてそそくさと部屋を出る。扉をしめて、シレアは大きく息をついた。
「ラルフィリエルはどーいう風にエスと過ごしてるんだろ」
 隣の部屋を見てシレアはそんなことを考えた。実際そんなことを聞けば、エスティは照れて怒るだろうしラルフィリエルは困るだろうが、後学の為にも是非聞いておきたいものだ、そんなことを考えながら、階段を下りる。
 仕込みの前に店の前を掃除しておこうと、箒を片手に外に出れば、雲ひとつない快晴だった。あの長雨があがってから数日、出番を取りもどそうとしているかのように、毎日お陽様は大活躍だ。
「雨も好きだけど。やっぱり、晴れた日は元気が出るよね!」
 玄関だけでなく道端まで掃き掃除をしながら、シレアは大きな独り言を言った。すると、
「そうだな」
 まったく予想外に返事が返ってきた。
 シレアが驚いて思わず箒を取り落としてしまったのは、返事が返ってきたからでも、独り言を聞かれていた恥ずかしさの為でもない。ただ、その声の主にだ。
 長い付き合いというわけではない。でも忘れるにはあまりに早すぎる声。
「ラディ……!」
 振り返ったシレアが見たのは、口にした名の通りの人物だったが、思い描いた通りの彼ではなかった。
 白髪はきちんと切りそろえられ、きちんとした身なりをしたライドリックが、澄んだ水色の瞳を真っ直ぐこちらに向けて微笑んでいた。出会った頃とはまるで別人のような彼に驚いて、シレアは一瞬言葉が出なかった。
「これを返そうと思って」
 何も言えないでいるシレアに、ライドリックはそう告げると、赤い傘を差し出した。それはあの日、シレアが公園に置き去りにしてしまったシレアの傘だった。
「あ……、ここしばらくずっと晴れてたからすっかり忘れてたよ。ラディが持っててくれたんだね」
 受け取ろうと伸ばした手が、少し震えた。あの日言われたライドリックの言葉は、思い出にするにはまだ新しすぎる。それを見て、ライドリックは笑みに自嘲を滲ませた。
「それから、あの時のこと……ごめん。本当はもっと早く謝ろうと思ったんだ。だからすぐに公園に引き返したけど、もうシレア、いなくなってたから……。でもちゃんと謝りたかったから、傘を忘れていってくれて良かった。俺は臆病だから、こんなきっかけでもなかったら、きっとここまで来れなかった」
 自嘲的な笑みでも、ライドリックの瞳と表情に、翳りが落ちることはもうなかった。だけどシレアの方はそうはいかない。どんな顔をしていいかわからず、シレアは俯いた。
「……謝るのはあたしの方だよ。あたしもラディに会って謝らなきゃってずっと思ってたのに、楽な方に逃げてばかりだった。嫌な人間だよね」
「どうしてシレアが謝るんだよ」
 ライドリックは苦笑すると、伸ばしかけの彼女の手に傘を握らせた。
「シレアは俺にいろんなことを教えてくれた。シレアにこの気持ちを教えて貰ったから、俺はまた誰かを好きになれる。辛いこともあるかもしれないけれど、楽しいことも感じていける。精一杯生きていけるんだ。天国にいる俺の家族も、きっとそれを喜んでくれてると思う」
 顔をあげると、ライドリックはにっこりと微笑んだ。何もかも吹っ切った、明るい笑みだった。
「そんな風に考えられるようになったのはシレアのお蔭だよ」
 ありがとう、と強く告げたライドリックの言葉が、何よりも強くシレアの心を打った。そしてその瞬間、誰よりも強く、シレアはライドリックの幸せを願った。もう、それしか自分が彼にできることはないから、せめて強く祈った。
「それだけ、言いたかったんだ。朝早くにごめん。でももう行かなきゃ。これから仕事なんだ」
「仕事?」
「ああ。俺、孤児院を出たんだ。町中駆け回って仕事探したんだぜ。今は住み込みだけど、いずれ自分で生活できるように頑張るよ」
 少年らしい、荒削りの逞しさと自信を備えた声で、ライドリックは答えた。
「頑張ってね」
 それしか言えないことをシレアは悔しく思っていたが、ライドリックにはそれで充分だった。その言葉を最後にして、ライドリックはシレアに背を向け、走り出した。
 数十年が経ち、全てが思い出に変わったら、また彼女を訪ねるのも良い。だが、それまでここに来ることはもうないだろう。だけど、彼女の言葉のひとつひとつが忘れずに胸に生きているから、この感情が胸に宿る限り、走り続けることができると、ライドリックは確信していた。
(だけど、ひとつだけ言えなかったな)
 走りながらライドリックは苦笑した。
 本当は、リューンにも礼を言うつもりだった。直接会うことはできないにしても、シレアに言伝を頼むつもりだったのだ。だがそれをするには、やはりまだ少し悔しかった。
 吹っ切ったといっても、苦しみや哀しみがまったく消え去ったわけではない。心の中には未だに苦味が広がっている。だけど今ならもう解る。それが愛するということで、それはときに苦味を帯びるが、それはときに苦味など彼方へ吹き飛ばしてしまうこと。
(だから俺は――また誰かを愛するよ)
 たったひとつの強がりを心のなかで独白し、ライドリックは晴天の街を駆けていった。


 しばし、シレアは傘を握り締めたまま、ライドリックの去った方をぼんやり眺めていた。
 彼の姿が去っても、ずっとそうしていたのだが。
「おはよう。早いね、シレア」
 扉を開ける音とその声に、ドキっとして慌ててシレアは掃除を再開した。リューンがこちらに向かって歩いてくるのを視界の端に見止めると、シレアはとりあえず一生懸命手をざかざかと動した。何を掃いているのか自分でも解らなかったが。
「変わったもので掃除するんだね」
 吹き出すのを堪えた声に、はっとして手元を見ると、持っていたのは傘だった。
 箒は、足元に転がったままである。
「あ……」
 シレアは箒を見下ろしたまま硬直すると、次に真っ赤になった。まるで馬鹿である。
 ついにこらえきれず笑い出したリューンに、シレアは赤面したまま諦めたようにため息をついた。
「……見てたの?」
「何を?」
 どうにか笑いを収めたリューンが、涙を拭いながら、そ知らぬ顔でそう答えた。
「泣くほど笑わなくても」
 ほっと息を吐いて、シレアは憮然とした。はぐらかされても、リューンはそれ以上追及してこなかった。その態度からは、見ていたのかいないのかは読み取れなかったが、シレアにしてもそれを追及するつもりはなかった。
「それよりさ。なんでシレアは毎朝急いで部屋から出て行くの?」
「みっみっ……! 見てたの!?」
 むしろ、こっちの追及の方が一大事となった。だがリューンはやはり、そ知らぬ顔で答える。
「何を?」
 とぼけたフリをしているが、明らかに隻眼が笑っていた。
「リューンお兄ちゃんの馬鹿ッ!! 意地悪ッ!!」
 それはどこからどう見ても、微笑ましい兄妹の姿だった。未だに気恥ずかしくて、お兄ちゃんを付けないとリューンのことを呼べないシレアだが、リューンも別にそれに関して何も言わない。2人にとって、そんなことは些細なことでしかない。関係なんてどうでもいい。だけど、どこか遠かった存在が、今は確かに近くに感じられる。それだけで2人には充分だった。

(あたしは、幸せ)

 今日もシレアは、胸の中でその言葉を噛み締め、誇る。
 家族に。仲間に。親友に。愛する人に。自分を取り巻く全ての人に。
 雨の夜にも。晴れた朝にも。辛い過去にも。見えない未来にも。


 だからシレアは、今日も太陽に負けない笑みを浮かべる。