13.Stay by my side.

 唐突な景色の変容に、ミルディンは戸惑った。
 最初はエレフォ達が消えたのかと思ったが、見覚えのない辺りの様子に、消えたのは自分の方だったのだろうと言うことに気付いたのは間もなくだった。
 薄暗い回廊と肌寒い空気に身震いする。――全て思い出した。
 レガシスという漆黒の青年、遠くなる意識の最後に聞いたスペル、あれはリューンの詠んでいたスペルと同じものだった。
(……精神魔法士(マインドソーサラー)
 胸の中でその単語を反芻する。だとしたら、彼は自分を操ろうとしたというのか。
 何の為に?
 不安と恐怖が生まれる。
「アルフェス……」
 無意識にその名を呼んでしまって、ミルディンは慌てて首を横に振った。
 そして手を伸ばし、凛とした声を響かせてスペルを詠む。

『“我が御名において――契約により、時空の扉より来たれ。ラルトフェルテデス”』

 彼女の手の中で時空が歪み、ミニサイズのラトが姿を現した。
「危険があるなら最初から喚ばないか!!」
 具現と共に怒号を飛ばしたラトに、思わずミルディンは後ずさった。
「ご、ごめんなさい」
「……心配したぞ、ミラ」
 彼女の肩に止まり、ぽつり、と呟いたラトに、ミルディンが微笑む。
「ありがとう」
 不安が引いていくのがわかる。一人じゃなくて本当に良かったと、ミルディンは心底思った。
 ラトの存在に勇気付けられながら、暗い回廊を歩き出す。
「……ここは、どこなんだろう」
「城ではないのか」
「ううん、城……だと思うけど」
 今にも消えそうな弱々しい炎を灯している燭台に、ランドエバー王家の家紋を模ったレリーフを見て、ラトの言葉を否定する。
「王城の全てを知ってるわけじゃないから……もしかして牢屋の方かしら」
 場所が場所だけに決して近づいてはならないと、両親や重臣達から言われていた場所を思い返し、ミルディンが呟く。
 やがて下り階段に突き当たってミルディンは少し躊躇った。
「……引き返したほうがいいのかな」
「待て」
 ミルディンの肩で、ラトが鋭い声をあげる。
「……血の匂い。あと、光の気配……」
「光? もしかして……アルフェス?」
 血だなんて――、頭を過ぎった不吉な予感に、ミルディンは駆け出した。
 階段を駆け下りるミルディンに、ラトはばさり、と翼を動かすと彼女の前を淡く光ながら飛び、その足元を照らす。
「……そんなにあの騎士が気になるか、ミラ?」
 ふいなるラトの問いに、ミルディンの足が一瞬止まる。結局何も答えないまま再び駆け出した。そんな彼女に、ラトは短く息を吐き出した。――人間で言うなら、溜め息といったところだろうか。 「何をそんなに迷う。さっきあの女騎士の前ではあんなに素直に認めたではないか? 自分の気持ちを」
「私の本心がどうであれ」
 足を止めないまま、押し殺した声でミルディンが答を返す。
「私はこの国の為この身を捧げると決めた。迷ってなどいません。私はこの国の民の幸せの為生きると決めたのです。その為にはこんな気持ちなど、あってはいけないもの」
 ばさりとささやかな羽音を落とし、再びラトが羽ばたく。そして彼女の肩に戻ると固い声で囁いた。

「自惚れるな。幸せでない者が人を幸せになどできぬ」

 その言葉に、ミルディンはセルリアン・ブルーの双眸を見開いた。
 ラトの声は厳しく、鋭くて、どこか冷たくもある。
「わたしは……」
「理解できぬな。そのように気持ちを押し殺したところで何を得るというのだ。お前だけではない――あの消去呪を使う少年や、銀の髪の娘、隻眼の少年、それに光の騎士――私欲をあからさまにするヒトの一方で、何故お前たちはそんなにも心を隠す」
「……」
仲間達の顔がラトの言葉と共に順に頭を過ぎり、彼らと別れてからそう時間は経っていないのに懐かしい思いがミルディンの胸に込み上げた。だが何故と問われても、それに返せる答えなどなく。
 口を噤んだミルディンに、ラトもそれ以上何か問いかけたりはしてこなかった。
 そうこうするうちに、やがて階段が途切れる。その先にあったのは、やはりミルディンが予想したとおりの牢獄だった。その中の人影に気付いて、息を飲む。
「アルフェス!?」
 悲鳴のように叫んで、ミルディンは駆け出した。薄暗くて顔はよく見えないが、間違いない。
 格子の前に駆け寄り、壁にかけてある粗末な松明の炎を頼りに目を凝らすと、肩口に剣を突きさされてぐったりしているアルフェスの姿が見え、今度こそミルディンは悲鳴をあげた。
「アルフェス――! 返事をして!!」
 鉄格子を両手で掴んで叫ぶが、返事はない。
 血の気が引いていくのが自分でもわかり、思わず意識を失いそうになりながら――だが耐える。ここで倒れたら誰が彼を救うというのだ。
 か細い腕でカ任せに鉄格子を揺する。びくともしない筈のそれは、しかしあっさりと奥に開いてミルディンはよろめいた。鍵が開いている。意外なことではあったが願ってもないことだ。
 バランスを崩しながらも彼の傍まで必死に駆け寄る。
 剣を引き抜こうとその柄に手をかけるが、こちらはびくりともしなかった。心音を確かめようと胸に手をあてるが、その感触に思わず手を引く。
(折れてる――)
 その酷い状態に涙が溢れる。
 効果があるのかは甚だ疑問だったが、ミルディンはリザレクト・スペルを紡いだ。その淡い光が、脇腹の傷や首筋の傷も映し出して、手が震える。
「アルフェス……、お願い……しっかりして……」
 懇願にも似たか細い声に――翠の双眸が微かに開いた。
「……姫……?」
「アルフェ!!」
 微かな声をあげる彼に、ミルディンは僅かばかり安堵を表情に滲ませた。だが状態から言えば、意識が戻ったからといってとても安心できるようなものではない。だがアルフェスは自分の傷など意に介していないかのように、ただ驚いたようにミルディンを見つめていた。
「姫……どうして、こんな所に? ここは……危険です、早く……」
 アルフェスは体を起こそうとしたが、肩に刺さる剣がそれを許さない。引き抜こうと左手を動かそうとしたら、力んだ為か口から血が溢れた。
「こんなときまで、わたしの心配をしないで! そんな傷で動いては駄目よ!!」
 思わずミルディンは激昂した。瀕死の重傷を負った者から見ても、自分はまだ護られる立場になるほど非力なのかと思うと、悔しくすらあった。どれほど呪文(スペル)を紡げど圧倒的に力が足りず、満足に癒すことすらできないこともまた、彼女を苛立たせた。
 何もできぬ自分を呪いながら、ミルディンは泣いていた。泣いても仕方ないと言い聞かせて堪えても、勝手に涙が頬を濡らしていく。
「姫……? 泣いているのですか……?」
 静かに泣く彼女に、傷とは別の痛みがアルフェスを襲っていた。
 せめて涙を拭ってやりたいのに、手が動かなかった。
「私は……姫を、泣かせてばかりですね」
 傷などどうでもよかった。その事実の方は彼にとっては何倍も痛かった。
 ――彼女を泣かせる為に騎士になったわけではないのに――
 そう思って、だがはっとする。

 キミはミラに苦しみと哀しみしか与えない。

 レガシスの言葉が蘇る。
 そう――これは解っていたことだ。
 彼女が姫と呼ばれる度心を痛めていることも、護られることを厭っていること、王女という立場に誇りを持つと同時に、それを何よりも疎っていることも。
 知っていて騎士になり、知っていて彼女を主君として剣を取った。
 全て知っていて、彼女を護ると誓った。その理由は――
「そうか……僕は」

 彼女の傍にいたかった。ただそれだけの為に取ったのだ。
 その所為で彼女を傷つけても苦しめても、ただそれだけの為に。

「アルフェス?」
 何か呟いた彼の声が聞き取れず、ミルディンが名を呼ぶ。
 アルフェスは左手を伸ばすと、彼女の頬に触れ、その涙を拭った。

 傍にいたかった。だけど、もう――

「もう、限界だよ……君の涙を見るのは」
 だから消えてしまいたかった。それが自分でも気付かなかった自分の“望み”だったのだ。レガシスの言っていた言葉の意味を、唐突に理解する。
 ミルディンは少し驚いたように彼を見たが、そっと彼の手を両手で包み込んだ。
「あなたがいてくれれば、また笑えます」
 静かに涙を流したまま、だがきっぱりとそう言った彼女に、一瞬アルフェスは双眸を見開いた。だがすぐにその瞳は戸惑いに曇る。右手に伝わる温かさに、震える。
「だから、わたしの傍に居て下さい……」
 紡がれる彼女の細い声に、また迷う。
 肩を震わせる彼女を抱きしめたい衝動に、唇を噛み締める。
 だが、何をしてやることもできぬまま、答など出せないままに、空間を切り裂いてその気配は再びやってくる。
「やっと役者が揃ったね」
 牢獄に響いた声に、ミルディンは体を強張らせた。
「さて、答えは出た? ミラ。……守護神」
 背徳の国の忘れられた王子は、そう言うと漆黒の瞳を愉快そうに細めた。