11.開幕する舞台

 圧倒的なエレフォの強さの前に、ラドルは驚嘆と共に戦慄していた。
 部隊長の地位を得る前にも後にも、このような焦燥と恐怖は戦場ですら覚えたことはなかった。冷や汗を頬に流しながら、ラドルは慄いた。今自分に――部隊長の自分にできることと言えば、逃げることだけなのだから。
「自分の実力では敵わないと思う相手から逃げ遂せられるなどと思うな、愚か者が」
「――――ッ!!!」
 否、相手はそれすら許す気はないようだった。一分の隙も無駄な動きもない剣先が喉元へと伸び、死に物狂いでラドルがそれを叩き落す。
 彼女の剣は払っても払ってもつきまとわる“死”を運ぶ剣に見えた。
 不敵な笑みはとっくにどこかに消えうせ、その顔に浮かぶのは、ただこの場に対する恐怖とこの場を離れたいという焦燥のみ。
 部屋を飛び出し回廊を横切り、別の部屋へと駆け込むと、窓を開けるのももどかしく、派手な音を立てて窓を突き破り、城壁をつたって逃げてゆくラドルを見、エレフォは嘆息した。
 無論逃がしてやる気などエレフォには毛頭ない。ミルディンがついてきているのを視界の端で確認するや、
「すみません。しっかり掴まっていてください」
「え……!?」
 困惑気味の彼女の手を引き、しっかりと抱え上げるとエレフォは窓を飛び出した。


 広く人気のない図書館で、だがおよそそこには似つかわしくない激しく剣のぶつかり合う音が幾度となく響き渡る。
 本は無茶苦茶に散乱し、テーブルは真っ二つ、椅子はあらかたひっくり返るといった凄惨な状態の中、その上を二人の剣士が縦横無尽に駆け回り、打ち合いを続けていた。
「そろそろ諦めたら〜? 図書館の被害額が謝って済む内にさ〜」
「……ぬかせ!!」
 怒声とともに繰り出されるフヴェルの鋭い一撃をかわし、跳躍して間合いを取ると、ヒューバートはフウ、と軽く溜め息をついた。その呼吸のひとつも乱れていないのに対し、対峙するフヴェルは荒く肩で息をついている。
 ヒューバートの優勢は誰の目にも明らかだった。
「くッ、何故だ! 副隊長と言っても所詮は肩書きだけにすぎん! 何故そんな貴様などに……!」
 苛立ちを乗せて渾身の力で振り下ろされた剣を受けて、ヒューバートは微笑む。
「そんな腕じゃ、オマエの“部隊長”も肩書きだけと一緒じゃん?」
 軽い口調で何気なく発せられたそんな言葉に、フヴェルの表情が憤怒に歪む。吐き出されかけた怒号は、だが何の言葉も結ぶことなく――
「ぐッ!!?」
 ヒューバートとフヴェルが気配を感じてはっと顔をあげた瞬間、ものすごい勢いで飛んできた“何か”と正面衝突してフヴェルが鈍い声をあげて吹っ飛んで行った。
 彼が突っ込んだ本棚は大きな音を立てて倒れ、書物が雪崩のように“彼ら”の上に降り注ぐ。
「他にも鼠がいたか」
 うんざりした声と共に現れたエレフォとその後ろに寄り添うミルディン、そして飛んできたそれを見てヒューバートもまたうんざりした表情になった。
「鼠ってか、猫じゃない〜? 元老院の飼い猫。こいつも部隊長っしょ? 見覚えある」
「そっちは第五部隊のフヴェルか。全く嫌になるな」
 豊富な波打つブロンドを手櫛で撫でつけエレフォが吐き捨てる。
「で、こいつらどうするの? オレ的にはもうさくっと刺しちゃっていいと思うんだけど」
「同感だがそういうわけにもいかんだろう。しかし元老院がああじゃ裁判にもならん。拘束して捨て置け」
「ま、ほっといても当面問題なさそうだけど」
 本棚と本に埋もれてのびている騎士二人を見下ろしてヒューバートは嘆息した。
「……ねぇ、エレン、ヒュー。これはどういうこと? 何が起こっているの?」
 そんな現状に、耐え切れずミルディンは不安げに問いを発した。
 だがそれに対して明確に返せるような答えはエレフォもヒューバートも実のところ持ってはいない。逆にエレフォはミルディンの両肩を掴むと問い返した。
「姫、姫が意識を失ったとき、あのときに何があったか……思い出せませんか。少しでも」
「……あのとき……」
 真摯なライラックの瞳に見つめられて、記憶をまさぐるも、思いだせることはほとんどなかった。頭の奥が鈍く痛む。
 思い出せるのは――胸の痛みと、涙と、光。
「では、姫……レガシスという者にはお会いになりましたか」
 だが、エレフォが口にした名にミルディンははっと顔をあげた。その名が結びつくのは漆黒の闇。
(……会った事がある? レガシス……誰? でも……あのとき)

 あのとき。

 ――ハジメマシテ、王女さま。ボクは――

 そう言った彼は――

「……エレン、わたし……!!」
 思い出したその記憶をエレフォに伝えようと口を開いた、その瞬間。その刹那に、あまりにも唐突に、彼女の姿は掻き消えた。突然の事態に、エレフォもヒューバートも、何の言葉も発せられぬまま、動けぬままに。

『そろそろ、舞台の幕をあげたいんだ。役者を頂いていくよ――』

 どこからともなく愉しげな声が響いて消える。
 何もかもが一瞬の白昼夢のような出来事からヒューバートが我に返ったのは、バンッという激しい音が耳に届いたからであった。 その音が、エレフォが壁を殴りつけた音だとようやく解する。壁に亀裂が走りパラパラと塗装が崩れる。
「エレン……」
 その表情は憤怒と悲痛の入り混じった、今まで見たこともないようなもので、何を言おうとしたのか自分でもわからないままヒューバートが彼女の名を呼んだとき。
「エレフォ様……!」
 彼のほかにもまた、彼女を呼ぶ者があった。
 紅い軍服を纏った女騎士。親衛隊の者に相違ない彼女は、だが血のべっとりとついた抜き身の剣を抱きかかえるように持っており、表情は錯乱気味で、異様ないでたちである。
「レシィ……、どうした、それは」
 エレフォが柳眉を潜めて部下の名を呼ぶと、その前で親衛の女騎士は力が抜けたようにがくりと膝をつく。
「私、私……ッ、ア、アルフェス様が……ッ」
「落ち着け、レシィ。アルフェスがどうしたんだ」
 彼女の前にかがみこんで、優しく尋ねる。彼女を落ち着かせるために刺激しないようゆっくりと問うたのだが、彼女が口にした名にエレフォの脳裏には嫌な予感が走った。
「先ほど、レゼクトラ卿によって……投獄されました」
「何だと!?」
 思わずエレフォが叫び声をあげるが、ヒューバートは「あちゃ〜」と額に手を当てた。無論エレフォはそれを見逃さない。
「どういうことだ、ヒュー。奴は何をしてた」
「何って、元老院を探るって。……というより、エルフィーナ様に話しを聞きに行くって」
「母上に……! そうか、それで……」
 レゼクトラ卿の逆鱗に触れたのか――その点についてはこの上なく合点がいったのだが、このタイミングでアルフェスが拘束されるなど、陰謀めいたものを感じてならない。
「罠くさいな。オレ達足止めされたんじゃ」
 気付いてヒューバートが呟く。エレフォは頷くと、レシィの方へ向き直った。
「とにかくお前は、王城の宿舎の方に戻れ。出来る限り他の親衛隊員にも、そうするよう伝達してくれるか?」
「エレフォ様、アルフェス様は……傷を負ってるんです。私、急に意識がなくなって……気付いたら……」
 震えながら剣を抱きかかえる彼女からそっと剣をとりあげると、エレフォはそれを鞘に戻してやった。
「お前が気に病むことはない。傷を負うのは自分の責任だ……アルフェスなら心配ないだろう。レシィ、気をしっかり持つんだ。我らは護られる側ではない……私はお前を護ってはやれないのだから」
 エレフォの言葉は優しいが厳しい。だがそれを訊くレシィの表情からは錯乱の色は消え、代わりにすっとひきしまった。
「……はい」
 しっかりと頷いて踵を返していく彼女を見て、とりあえずはほっとする。だがすぐにエレフォは顔を引き締めた。
「ヒュー、私は地下牢へ行く。私が戻らなければ、後を頼む」
 彼女の言葉に、ヒューバートの表情が強張る。
「……じょーだん。オレも行く」
「行って罠ならどうする。私もお前も掴まれば次の手が打てん」
「じゃーオレが行く」
 断固として退かない彼に、エレフォは深い溜め息をついた。
「……このタイミングでアルフェスが投獄された。私達を足止めして、だ、彼も奴の言う役者のうちだろう。恐らくは姫もそこだ。……姫を護るのは私の仕事。お前は自分の仕事をしろ、近衛副隊長ヒューバート。でなければお前は本当に肩書きだけだ」
 冷ややかに言うエレフォに、ヒューバートはかっと鳶色の瞳を見開くと彼女の胸倉を掴み上げた。勢い余ってエレフォがよろけ、壁に背をうちつける。
「ふざけんなッ!! 護りたいもの護れない肩書きなんかいらねーんだよッ!! そんなものに拘束されるなら近衛騎士なんかやめてやる!!」
「好きにしろ」
 激昂するヒューバート――それは稀にもないことだったが、エレフォは表情を動かさなかった。胸倉を掴まれたまま、動揺することもその手を振り払うこともなく、冷たくエレフォは言い放つ。
「だが騎士をやめるなら、今すぐこの城を出て行け。その時点でお前はこの件とは無関係だ」
「…………ッ!!!」
 ヒューバートの手から力が抜ける。
 襟元を正しながら、エレフォは沈黙した彼を見つめた。
「……だが私はお前に騎士をやめて欲しくない。お前に頼むのは、お前を最も信頼してるからだ」
「……」
「頼む」
「……オレが」
 頭を下げたエレフォとは反対に、ヒューバートは顔を上げた。その表情には既にいつもの笑みが戻ってはいるが、そこには僅かな憂いがある。
「アンタより強けりゃー、アンタぶっとばしてでもオレが行くんだけどね……。力がないのに護りたいなんてほざいても滑稽なだけか」
「……お前は強いよ」
「やめてよ、なんか情けなくなるじゃん?」
 エレフォにしてみれば心底からの言葉だったが、ヒューバートは力なく苦笑した。
「行っていーよ。けど一刻待って戻らなかったら助けにいくからな」
「後はお前に任せる、と言ったんだ。好きにしろ」
 冷たい言葉と裏腹に、極上の笑みを見せて――
 走り去って行くエレフォを、ヒューバートは複雑な表情で見送った。