8.導きの光

 何も映さない、闇。それは何も見せない優しさを持つ。
 だからそこには安寧があり、心地良い。

 もう何も見たくない。考えたくない。

 思い切り叫ぶ――だが声にはならなかった。それでも叫び続ける。じわり、と闇がにじり寄ってくる。
 何ものにも混じらない漆黒に抱きしめられる。
 
 モウ、ナニモミナクテモイイヨ。

 甘美な言葉が脳裏に響く。そこにあるのは求めていた安らぎの筈なのに、何かが自分の中で反発した。
 闇に点のように光が差して、少女は青の両目を開く。闇の中では目を開けていても閉じていても同じだし、そうする意味もなかったのだが――小さな小さな光に、瞳を開けて、眼を凝らす。

「ミラ、光は全てを映すよ。見たくないものも辛いものも、醜いものも、汚いものも。そこに安らぎも優しさもない」

 聞き覚えのある声が頭の中で響いた。だが誰なのかはわからない。
 至極道理なことを告げるその言葉に、反発する気はない。だが、だからといって光から目を背ける気にもならなかった。まとわりつく闇と言葉を払いのけて、少女は走った。
 その瞬間――小さな光は輝きを増した。
 光はどんどん闇を塗り替えて、目の前を照らしていく。闇に沈んで見えなかった故郷の街並み、優しい父と母の顔、幸せそうに笑う民の姿。今はもうないものや、自分の采配ひとつに関わる国の姿は、愛しくもあるが胸を刺すものにもなって、少女の碧眼には涙が浮かんだ。

「苦しいなら見なくていいのに……」

 光が弱まり、また全てが闇に消える。

「父上、母上!!!」

 今度は自分の声がはっきりと自分に聞こえる。思い切りそう叫び、もう一度息を吸う。
「わたしは……!!」
 闇の中で、少女は――ミルディンは声を振り絞った。
「わたしは見たい!! この国を、この国の民を!!」
 消え入りそうな小さな光に向かって、ミルディンは駆け出した。その光を、彼女は知っている。
 ずっと傍にあった光だ。
 確かに光は残酷かもしれない。何も映さない闇は安らぎだ。その光に晒されれば、迷いだらけだ。確たる答えもない。苦しみも多々あるだろう。

 それでも――

「それでも、わたしはこの国を愛している! この国を、この国の民を!! わたしを取り巻く全ての人々を、そしてそれらを取り巻く世界を!! この想いだけは、消せない……!!」

 瞬間、全ての闇を塗り替える光に、ミルディンは目が眩んだ。だけど、しっかりと青の双眸をひらく。
 光が全てを映し出す。
 故郷を、世界を、人々を――それは彼女にまた苦しみと迷いをもたらす。だが同時に、最高の至福をももたらしてくれるのだ。
 だからこの光は、厳しくも優しい。
 残酷だが、愛おしい。
 流れる涙を拭いもせず、強烈にさえていく思考と、強い力に引きずり上げられていく感覚にミルディンは身を委ねた。

「……姫!」
 唐突に開かれた青い双眸に、エレフォは笑みを浮かべて彼女を覗き込んだ。涙に濡れたセルリアンブルーの瞳は、しばし虚ろに宙を泳いでいたが、やがてエレフォへと焦点を定めた。
「エレン……!!」
 弾かれるように飛び起きて、ミルディンがきつく抱きついてくる。
「姫……? どうされました?」
 首に回った両手は震えていて、華奢な身体を抱いてやりながら優しくエレフォは尋ねた。
「怖い思いをされたのですか……? それとも辛い夢でも見ましたか」
「うん……ううん」
 泣きながら、ミルディンが肯定とも否定ともつかぬ言葉を返す。そっと身体を離した彼女はまだしゃくりあげていたが、それでも大分落ち着きを取り戻したかに見えた。
「何が……あったか、よく覚えていないの。でも……真っ暗な夢を見た」
 子供のように言うミルディンのブロンドを、エレフォが優しく撫でてやる。
「でも、うわ言で姫はお父上とお母上を呼んでいらっしゃいましたよ」
「うん。光が見せてくれたの。闇の中には、何もない。辛いことも苦しいことも何もなくて、何も考えなくて良かった。その方が気持ちは楽だけど……でもそれはやっぱり寂しいよ。光は眩しくて、見たくないことまで見えてしまうけど、でもわたしはこの光の中にいたい」
 ふたたびミルディンの瞳から涙が零れ落ち、エレフォは黙ってもう一度彼女を抱き寄せた。
 彼女の胸に縋りつきながら、ミルディンは独白のように言葉を続ける。
「厳しくて、辛い。だけど優しくて温かいの。この光は――」
 この光は、いつも自分を包んでくれているもの。
 だから怖くなかった。
 決してこの光は自分を不幸にはしないから。
「……エレン、わたし……」
 抱きついたまま顔だけを上げ、エレフォを見上げると、彼女は優しい微笑みを見せた。まるで母に抱かれているような感覚に、驚く程素直になれた。
「わたし、アルフェが好きなの」
「姫……」
 涙の止まらないミルディンを、エレフォが強く抱きしめる。
 ――どうしてやることもできない。
 彼女の想いに気付いてはいた。決して彼女はそれを表には出さなかったが、ずっと傍にいればその位のことは知れた。でも知ってもどうしてやることもできなかった。それは今も変わらない。
 ただ、女騎士は願った。少しでも彼女の心が安らげるように――

(アルフェスには遠く及ばなくても、私の光が少しでも姫を照らせるように――)

 だが、エレフォのその祈りにも似た願いさえ、儚くも打ち砕かれる。
 肌に突き刺さるような殺気を感じて、エレフォはそっとミルディンの身体を離した。
「エレン?」
 その表情が険しくなったのを見て取り、ミルディンが不安げにエレフォの名を呼ぶ。
「……何かおかしい、とは思っていたがな。そうやって表立って動いてくれた方が、こちらとしては解り易い」
 彼女の応えはミルディンに対してのものではない。
 庇うようにミルディンの前に出ると、エレフォは静かに剣を抜き放った。果たしてその切っ先の向こうに、近衛隊の軍服を纏った青年が現れる。
「表立って動く気はないよ。ただアンタが一足先に舞台から降りるだけだ」
 金茶の髪に、濃い青の瞳。その顔にエレフォは見覚えがあった。
「フン……、部隊長の座じゃ不満足で元老院に泣きついたか? 第二部隊長のラドル・フィーレン」
「名を覚えてくれてるとは光栄だね。……アンタも同じだろ? 今アンタが親衛隊長の座にいるのは誰のお蔭だよ、レゼクトラ卿の愛娘さん」
 くくっ、と笑ったラドルに対し、エレフォもまた口の端を上げる。こうも簡単にカマかけに乗ってくれるとは思わなかった。
(やはり、元老院が黒幕で何かを企んでいるということか――、いや、今の時点ではどちらが黒幕かはまだわからないな)
 あの漆黒の青年を思い出し即決を思いとどまる。だが元老院が一枚噛んでいることは確かとなった。そしてこの青年が元老院の息がかかった者であるということも。
「どういうことですか? 貴方は近衛の――」
 疑問の声を上げたミルディンの耳に、ヒュッと風を切る音が聞こえる。
「こういうことですよ、王女」
 抜き身の剣を振りかざして、ラドルは一気に間合いをつめてきた。振り下ろされたその剣は、だが難なくエレフォの剣に阻まれる。
「なかなかいい動きするじゃないか、親衛。そうじゃなくちゃ面白く――」
 ラドルの嘲笑はそこで凍りついた。
「……貴様は何か、勘違いをしてるようだな」
 ラドルの剣を跳ね返し、彼の前に悠然と立ちはだかるのは妖艶な死神。

「貴様は姫に剣を向けた。楽には済まさんぞ。……私が親衛隊長であるが所以、その身を以ってとくと味わえ」