9.邂逅

 城下町の石畳の上に、彼女の手を離れた細剣が落ちて滑った。それに続いて、苦悶の表情を浮かべたカオスロードが、胸を押さえて膝を落とす。そんな彼女の様子に、状況を把握できないアルフェスは戸惑いの色を見せたが、エスティの顔には、安堵の笑みが浮かんだ。
「……リューン」
 彼が口にした、その名の通りの人物が姿を現したのは、それから幾ばくもしないうちだ。
「エスっ、アルフェスっ、大丈夫!?」
 走り寄って来たリューンが、2人の怪我を見て、安否を気遣う。血の滴る左手を押さえ、なんとかな、とエスティは苦笑した。
「その手は、大丈夫じゃないだろう。治すから診せて」
 同様に苦笑しながら近づいてきたアルフェスに素直に怪我を見せると、彼は早口にスペルを詠んだ。

『"貴き神の御使いよ。我が手に寄りて満ちよ。治癒(リザレクション)"』

 アルフェスのスペルを詠む声と共に、その左手を光が包み込む。
「サンキュー、アルフェス」
 ぱっくりと口を開けた傷口がみるみる塞がるのに、感嘆の声を上げながらエスティは礼を述べた。命があったことを考えればこんな怪我はなんでもなかったが、それでも痛いものは痛いのである。だが、傷が治ったことに浮かれている場合ではない。
 無力化しているとはいえ、目の前にはあのカオスロードがいるのだ。
「……何をした」
 未だ立ち上がれず、うずくまったまま、彼女は呻いた。
「精神魔法だよ」
 その問いに、リューンが答える。
「ぼくの魔法は、物理的ではなく、精神面に作用する。そして、そのダメージは心の弱さに比例するんだ」
「くッ」
 近寄ろうとしたリューンに気付いて、カオスロードは足元に落ちた剣を咄嗟に握り締めた。まだ体の自由はきかない筈なのに、それでもよろけながらではあるが、彼女は剣を構えて立ち上がる。
「……古代秘宝は……、何処にある? 渡せ!」
 カオスロードが語彙を荒げる。だが、今までとはまるきり対照的に体勢を立て直したエスティは淡々と答えた。
「ねぇよ、ここには。テメェの魔力で感知できるだろう」
「何処にある、と聞いている」
 だが彼女も徐々に落ち着きを取り戻したようで、今にも斬りかからん勢いで再度問い返してきた。応戦を覚悟したエスティを、だがリューンが制して彼女の前に出る。
「それは言えないよ」
 カオスロードが相手でも、リューンの声は穏やかだ。
「どうしてもと言うなら、もう一度食らってみる?辛いと思うよ。今の君にはね」
 彼女の心が、彼には視えていた。だから臆することなく、リューンは少女を見つめた。紫水晶の瞳が、キッとリューンを睨みつける。
「……!!」
 瞬間、リューンの顔に動揺が走るのを、――偶然――、エスティは見た。しかし、だからと言って今はその理由を確かめる術もない。だがその一瞬に、彼女は踏み込んでいた。
「リューン!!」
「!」
 エスティが鋭く叫び、反射的にリューンは身を捻って彼女の斬撃かわした。その真横を、カオスロードの剣がかすめ、リューンの美しい亜麻色の髪が数本ハラリと舞う。それと同時に頬には赤い筋が走った。
「古代秘宝は、後日必ず貰い受ける!」
 それに構わずリューンがカオスロードを振り仰ぐ頃には、既に彼女の姿は銀の風の中に消えていた。
「……"転移呪(テレポートスペル)"」
 エスティが呻く。遥か昔に失われたスペルだ。だがもう、それについて考えをめぐらす余裕は彼にはなかった。彼女の気配がその場から消えた瞬間、エスティはその場に仰向けに倒れこんだ。
「エスティ!大丈夫か?」
 不安げに覗き込んだアルフェスに、エスティは屈託のない笑顔を見せた。
「……勝ったんだよ。おめでとう」
 焼け焦げの残る石畳に寝転び、前髪を掻きあげながらそう言ったエスティに手を差し伸べ、アルフェスも笑顔を返した。
「君たちのお蔭さ。ありがとう、エスティ、リューン」
 その手を取って起き上がったエスティだったが、リューンは応えなかった。彼の瞳は虚空を泳ぎ、アルフェスの声も多分届いていない。
「……リューン?」
 エスティが顔を覗き込んで名を呼ぶと、その時やっとリューンの瞳は彼を捉えたようだった。
「どうした?……さっきから、変だぞ、お前」
「え……ああ」
 ようやく我に返ったリューンは―だが、つとエスティから目を逸らし、「なんでもない」そう呟いたので、
「……そうか」
 エスティもそう応えるしかなかった。
(何でもないってツラかよ)
 訊かれるのを拒絶するかのようなリューンの態度に、その言葉は飲み込む。だがそんな彼の心境はリューンも気付いているのだろう。慌てて笑顔を浮かべる。それが作ったものであることなど、アルフェスでも解ったが。
「さあ、早く帰ろう。シレアも王女様も、きっと心配してるよ。ねぇ、アルフェス」
「あ、ああ」
 笑顔でそう振られ、アルフェスもまた頷くしかなかった。