3.黒の青年

 王女は一切の動揺を表に出さぬよう努めていた。
それは容易な事ではないが、慣れたことではある。自己を捨て、民の為に生きることを、小さな頃から説かれた為に。
(だからわたしは旅に出た。この国を護るために、この世界を護ろうと。でも――)
 唇を噛んで俯くと、豪奢な玉座と紅い絨毯が視界に入り、ミルディンは目を閉じた。
 ここに戻ってきたのは、様子を見るだけのつもりだった。けれどもこの状況では、再びエスティ達の所に戻るのはとても無理だ。 戻ってこなければよかった――頭のどこかをそんな思いが走るが、そういう問題ではないこともまたわかっていた。
 答えは二つだ。
 元老院を跳ね除けてエスティ達の元に行くか、それとも、王を迎えてこのまま祖国に止まるか。
 もちろん、気持ちは前者にある。だけど元老院を振り切れないのは、彼らの言葉が正しいと、自分の心のどこかが認めてしまっているからだ。国を護りたいと思う気持ちに嘘偽りはないことには自信があったが、その為の二つの行動の答を出す過程に、自身の感情が混ざっていないか――それには自信がない。
 信じるものを貫くにも、信じるに足るものがない。どちらにも。

「苦しいの?」

 ふいに、聞き憶えのない声が間近で聴こえて――
 ミルディンは驚いて目を開けると顔を上げた。
 ほんの今までなんの気配も感じなかったのに、すぐ目の前に青年が立っている。自分が気付かなかったのは考え込んでいたからにしても、レゼクトラ卿や親衛隊が、ここまで接近を許すのは妙だ。不審に思って視界の端であたりを見回してみると、彼らの姿もまたいつの間にか消えうせていた。
「……!」
 瞳に強い警戒を浮かべて、ミルディンは改めてその青年を見た。
 長く美しい黒髪と、髪と同じ漆黒の瞳。年の頃は20歳半ば頃だろうか――ひどく整った綺麗な顔立ちをしている。彼はミルディンの警戒を見て取ると、漆黒の目を細めて微笑んだ。
「ハジメマシテ、王女さま。ボクはレガシス・G・ウォーハイド。君の婚約者だよ」
「え……?」
 思わぬ言葉に、彼女の表情には驚きと困惑の色が強まった。そんな彼女に、黒髪の青年、レガシスは更に顔を寄せて囁く。
「ねえ、苦しいんでしょ? この玉座は、君には窮屈そうだ。ボクには見えるよ、君の絶望が。この国に縛られて泣いている君の心が」
 こちらを見つめる吸い込まれそうな漆黒の瞳に、身震いする。その瞳は、何もかもを見通しているというよりは、心の全てを覗きこんでくるようだ。
「……やめて!」
 全ての虚勢も偽りも意味があるようには思えなかったが、それでもミルディンは立ち上がり、叫んだ。
「わたしはミルディン・ウィル・セシリス=ランドエバー、この国の王女! それはわたしの誇りです!!」
 立ち上がった彼女に合わせて、レガシスも顔を上げた。片時も視線を外さない彼から、ミルディンもまた目を逸らせない。叫ぶミルディンを、レガシスは哀しそうに見ると――そっと彼女に手を伸ばした。
「ボクが解放してあげる。キミをその重責から」
「!」
 冷たい手が頬に触れ、そしてそのまま首に回り、優しく抱きしめられる。
「もう苦しい思いはしなくていいよ。ボクがこの国の王になって、民を幸せにする。もうキミ一人がこの国の(いしずえ)に身を投げ出して、民の幸せの犠牲になることはないんだよ。ボクなら……キミを自由にしてあげられるよ。キミの想うその人は、キミをこの国へと縛り付けるだけだ。だけどボクならできる――ミラ」

 ゴーン、ゴーン……

 正午を告げる城の鐘の音が、遠くで聞こえる。冷たい手とは反対に彼の胸の中は温かく、彼の声は子守唄の様に心地良い。
 青年は彼女を抱く腕に力を込めた。だが彼女から見えないその笑みは、冷たく残忍なそれへと変わっている。

『――“精神支配(ソウル・コマンド)”』

 彼がそう詠ったとき、その腕の中の少女にもう意識はなかった。