9.二人の軍人 〜混沌の王と守護神〜

 イルが用意してくれた部屋のベッドは、至極寝心地は良いのだが、いかんせん眠る気にはなれない。
 聖域“エルダナ”のこと、そしてこのリダのこと。異形の姿をしたもの、イルの話、そしてガルヴァリエルのこと――エスティのこと。様々なことがぐるぐると頭を回って、ラルフィリエルは何度目かわからない寝返りを打った。ミルディンと同室というのも気まずく、どんな顔をして彼女と話せばいいのかわからない。話さなければいいのだろうが、それもまた居づらかった。
 幸いそんな空気にラルフィリエルが耐えられなくなる前に、「先に休んでてください」、ミルディンがそう言って部屋を出て行ったので彼女が戻ってくる前に眠ってしまいたかった。彼女が彼女なりに自分を受け入れようとしてくれていること、気を遣ってくれていることがわかっているのに、どう接したらいいのかわからない自分がもどかしい。苛立ちにも似た感情を押し殺して毛布を頭から被っていたのだが、部屋の扉がノックされ、のろのろとラルフィリエルは起き上がった。
 王女だろうか、他に思い当たる来訪者などなくそう考えるが、鍵はかけなかった筈だ。先に休んでいてと言った彼女がわざわざノックなどしないだろう。不審な者にしてみれば尚のことそうだ。
 それでも一応は剣を携えて扉を開ける。だが扉の向こうにいたのはそのどちらでもなかった。
 そこに立っていたのは、若いブロンドの騎士――ラルフィリエルは以前からこの青年を知っていた。自分が戦ってきた中で、唯一手にかけそこねた人物だ。
「“ランドエバーの守護神(キングダムズ・ガーディアン)”……」
 思わず通り名を呻いたラルフィリエルに、アルフェスが苦笑する。
「覚えててくれて光栄だよ。“カオスロード”」
 同様に通り名で返してきた彼に、ラルフィリエルは俯いた。
「通り名は嫌いか? ……僕もそうだ。差し支えなければ名前で呼んでくれ。アルフェス・レーシェルだ」
「……ラルフィリエル。ラルフィリエル・E・レオナリア。好きに呼んでくれて構わない。今更血塗られた通り名を捨てることも許されないだろうし、この名も好きじゃないんだ」
 シェオリオ――その名を心の奥に仕舞って、皇帝に与えられた名を口にする。“彼”が最期に口にしたその名はひどく懐かしく、胸に染みるが、そう名乗るにはあまりに自分はそのシェオリオという娘を知らない。
 ラルフィリエルのそんな心情まではわからないだろうが、アルフェスは「そうか」とだけ答えた。
「だがお前は何故通り名を嫌う? 英雄に相応しい通り名だ。騎士にすればさぞ名誉だろうに」
「僕は英雄じゃないし、ましてや守護神でもない。名誉や地位にも興味はない。血まみれなのは僕の二つ名も同じこと。君は“セルティの守護神”とでも呼ばれれば通り名を好きになれたかい?」
 皮肉げに言った彼の言葉に、ラルフィリエルは口の端を僅かにあげた。
「……なれないな。わかった、通り名で呼ぶのはやめる。私もラルフィリエルで構わない。――それで、どうした? 王女ならいない」
「いない?」
 ラルフィリエルの言葉にアルフェスが少し怪訝な顔をする。
「先刻部屋を出て行った。……このリダは、強大な力に護られている。そうそう何もないと思って止めなかったが……やはり、あまり一人にしない方がいい。ここにいる奴らも得体がしれないし、昼間のこともある」
「……心配してくれてるのか」
 アルフェスが微笑み、ラルフィリエルは思わず目を背けた。
(――違う)
 自分が彼女の心配をするなどおこがましい。
 第一心配するくらいなら、彼女が部屋を出るとき止めればよかったのだ。それができないのは怖いからだ。この後に及んで、罵られること、拒絶されることが怖いのだ。
 心の奥底に渦巻く生への渇望を振り切る為に消えることを選んだのに、差し伸べられた手に縋ってしまった。生きてもいいと言われたことに希望を見出してしまった。それがすごく許されないことの様に感じ、ひどく自己嫌悪する。そこに生じる平穏と安寧への恐れ。反発する、拒絶と憎悪への恐れ。
(私は何を望んでいるのだろう)
 ただ、苦しかった。
「苦しそうだ」
 ふいに降りかかった言葉に、ラルフィリエルははっと顔を上げた。見上げた騎士の顔に、その瞳に宿る色は、憎悪でもなければ同情でもない。
「君がどういう経緯でここにいるのか、僕は知らないけれど。少なくとも君が好んで人を殺めて来た訳ではないことはわかったよ」
「……好もうとも好まずとも、人を殺めた事実に変わりはない」
 自嘲するラルフィリエルに、アルフェスもまた自嘲を含んだ笑みを浮かべた。
「軍人の僕には耳に痛い言葉だ」
 その瞬間、彼女にはわかった。彼が何故二つ名を、英雄と呼ばれることを厭うのか。地位も名誉も、全ては屍の上に成り立ったもの。殺せば殺すほど名をあげるのが戦だ。その重みを彼は知っていて、どのように綺麗な言葉で覆っても、どのように正当な理由があっても、彼にとって殺人は殺人でしかないのだ。
 軍人として、そういうところは似ているのかもしれない。
「ひとつだけ答えてくれ。君はこの戦を終わらせたくてここにいる――そうなのか?」
 ラルフィリエルでさえも怯んでしまいそうな強い光の威圧をまとってアルフェスが問いかける。清廉で潔癖なその精霊の前ではどのような嘘偽りも通じはしない――だがラルフィリエルの答えに躊躇はない。
「ああ。もう誰一人この手にかけない為にここにいる」
 瞳を伏せて胸の前にあげた手を握り締める。
 自分が消える以外には、無理なことだと思っていた。迷いながらエスティの手をとったときもそうだった。でも、時が立つごとに、絶望と恐怖は薄らいで行く。それが出来ると思わせてくれる深紅の瞳と、覚えているその手の温かさ――
 だからきっと戦も止められる。
 開かれた紫の双眸にある意志を見て、アルフェスは微笑んだ。
「ならもう何も聞かない。よろしく、ラルフィリエル」
 握手を求めてくる彼に、驚きと戸惑いを見せながらもラルフィリエルが手を差し出す。その手の同じ温度に、彼と相対したあのとき、止めをさせなかったことに安堵する。
 少しだけラルフィリエルは微笑んで、何故かわからないがアルフェスも少しだけほっとした。
「……さあ、早く王女を探しに行け」
「そうだな。姫は目を離すと心配だから」
「ああ。あの王女様は無茶がすぎる」
 真顔で言ったラルフィリエルにアルフェスは苦笑した。
 だが彼が背を向けると、ラルフィリエルはその背にぽつりと呟いた。
「……だが、真っ直ぐで強い。羨ましいくらいに」
 その表情は見えないが、アルフェスは振り向かないまま扉を閉めた。
「羨ましい……か」
 呟いた自分も、多分似たような表情だろう。