8.救世主

 犬の頭と両翼を持つ異形の者イルによって、風変わりな建物――リダの中を案内され、ラルフィリエル、アルフェス、ミルディン、ルオの四人は客室へと通された。そこに至るまでの通路は、見たこともない固く冷たい材質で造られていたが、客室は大理石でできた豪奢なものだった。間取りも広くとってあり、大きく柔らかそうなベッドが並んでいる。
「奥の扉の向こうにも、通路を挟んでもう一室、ここと同じ部屋があります。女性の皆さんはそちらをお使い下さい。何かありましたらそちらの石版に手を触れれば僕に繋がります」
 壁にある赤い石版を指してイルがそう説明する。
「繋がるっていうのは、どういうこと?」
 ミルディンの問いに、イルは身につけている衣服のポケットから赤い石を取り出した。
「この石は端末みたいなもので、その石版に触れたものの魔力はこの石に繋がります。魔力の繋がりを介して、これを持つものと通信できるというわけです。ひどく原始的な仕組みではありますが、何か起きたときに不便かと思って急遽作りました」
「原始的ねぇ。俺にはチンプンカンプンだが」
 やれやれ、といった具合にルオは溜め息を付くと、どかりとベッドに腰をおろした。柔らかいが柔らかすぎず、体にぴったりと合うそのベッドは、いかにも寝心地が良さそうだ。
「何か今ご質問などはありますか?」
 尋ねてきたイルに、躊躇いがちに口を開いたのはラルフィリエルだった。
「……エスティは」
 その言葉にミルディンもはっとする。エスティとははぐれたままだが、彼もちゃんとこの中にいるのだろうか? その疑問をそれぞれの表情から読み取ったのだろう、イルはすぐに答えを返してきた。
「エスティ様も、リダの中においでですよ。今はイリュアさまのところにいます。話が終わればここにお通ししますよ。そうだ、良かったらそれまでこのリダの中を案内致しましょうか」
 イルが気さくにそう申し出る。うきうきしたその様子は少年のようだった。外見が外見なので歳の見当は全くつかないが、言葉の調子を見るに意外と若いのかもしれない。
 そんなイルの申し出に四人は顔を見合わせたが、すぐにルオは視線を外した。
「せっかくだけど俺はパスするぜ。訳がわからないこと続きで、良くねえ頭がパンクしそうなんだ。先に休ませてもらう」
 言うなりベッドに仰向けになると、間もなく豪快な鼾が部屋に響き渡る。そんな彼の様子に、ミルディンがクスリと笑い、アルフェスは呆れたように肩をすくめた。
「皆さんはどうされます?」
「あ、わたし、中を見てみたい」
 元々好奇心旺盛なミルディンがそう言い、イルは嬉しそうに目を細めた。
「では、行きましょう。お二人もよろしければどうぞ」
 歩き出したイルに着いていくミルディンに、当たり前のようにアルフェスが続き、少しためらいながらラルフィリエルもまたそれを追った。

 イルに連れられて、古代の珍しい石やそれを使ったアクセサリーが陳列される部屋、見渡す限り書物のおいてある図書館、また古代の遺物が収められた倉庫などをひととおり回り、一行はベンチの並ぶ公園のような場所でくつろいでいた。そこに辿りつくころにはすっかり辺りが暗くなっている。それに気付いて、ミルディンははっとした。確かに日没の時間はとっくに過ぎただろうが、ここは屋内だ。
「ねえ、今まで気にしてなかったんだけど、ここは建物の中よね? どうしてさっきは昼間みたいに明るくって、今は夜のように暗くなるの?」
「イリュアさまのお力です」
 得意げにイルが胸を張る。
「このリダは、自然界と同じ様に一日のサイクルがあるのですよ。だけど自然界の災害のない、とても安全で過ごし易いところです。全てイリュアさまのお力により、保たれているのです」
 辺りは闇に沈んだのに、この公園だけが月明かりのような優しい光に包まれている。それは確かに安息をもたらす光で、心底綺麗だとミルディンは感じた。だが、同時に寂しくもある。自慢げなイルの手前、彼女は口を噤んだが、その仕組みが自然の美しさ、素晴らしさを越えた安息だとは思えなかった。
 訪れた沈黙の理由がわからず、イルが不思議そうな顔をする。その静寂を、幼い声が遮った。
「イル〜」
 名を呼ばれてイルが破顔しながら声の方を見、だがすぐにこちらを向いて
「弟のムルです」
 声の主をさして言う。もう一度声の方へ顔を向けたイルの視線の先にいるのは、やはり異形の姿をした者で、猫の頭と体をしているが、頭には二本の鹿のそれと形状の似た角が生えている。ひどくアンバランスな外見をしているが、体は小柄だ。舌足らずな口調から見てもだいぶ幼いように思えた。
「イル、この人たち救世主さまのご一行さまなんだよね? だれが救世主さま?」
「違うよ、ムル。この人たちは救世主さまのお連れ様だよ。救世主さまは、今イリュアさまとお話しているんだ」
 何気ない兄弟の会話を聞きとがめたのはミルディンだけではなく、ラルフィリエル、アルフェスも怪訝な顔をした。
「救世主様?」
 代表して疑問の声をあげたのはミルディンだった。そんな彼女を兄弟はキラキラした瞳で見つめる。
「そう。僕たちの先祖である古代人が起こした過ちによって、世界は今危機にさらされているとイリュアさまは仰っていました。でも、力を持たない僕たちに代わって、それを止めてくださる救世主が現れるとも。イリュアさまは、ずっとその力を持つ方を探し続けていました。それが、エスティ様なのです。だから、エスティ様は救世主さまなのですよ」
 興奮して喋るイルとは対照的に、ラルフィリエルの心には影がよぎる。
(救世主だと?)
 胸の中で冷たさと共に吐き捨てる。

 ラルフィリエルは知っていた。
 欲しくも無い力に翻弄される痛み。血にまみれた自分を擁護するつもりはないが、彼女は憤りを禁じ得なかった。

(こんな私にさえ手を差し伸べたあの少年は、そんな陳腐な称号を押し付けられて翻弄され続けたと言うのか――?)
 

「ッ、ふざけるな……!!」
 喉の奥から絞り出したような怒号に、イリュアは言葉を止めた。
「何が救世主だ!! エインシェンティアの存在によってどれだけの人が死んだと思ってる!! こんな馬鹿げたことで、いったいどれだけの人が苦しんでると思ってるんだ!!」
 エスティの言葉から、イリュアは目を逸らさない。耳を塞がない。そんな彼女をいまにも殴りかかりそうな勢いで、だがそれをすることはできず――エスティは顔を歪めた。行き場のない拳を、膝を折って床に叩き付ける。
「オレは……力なんていらなかった……!!」
「そうだよね」
 悲愴さの漂う表情でイリュアは優しく呟くと、そっと彼に近づいた。崩れ落ちたエスティの正面に自らも膝をつき、彼の頭を包み込むように抱きしめる。
「そうだよね。ごめんね……私が、あなたの人生を狂わせた」
 彼女の腕の中は優しさに満ちていて、暖かくて、振り払おうとした腕は動かない。
 彼女は自分の全てを変えた。
 それは憎しみになり得る筈なのに、何故ここにあるのは安息なのか。
「聞きたいこと、色々あると思うけど。今日はもう休もう。話はまた明日……ね? だから、今は。泣いてもいいよ。秘密にしといてあげるから」
 憎んだ筈のあの日遺跡で聞いた声は、驚くほど素直に自分の中に入ってきて――
 寄る辺なかった自分の気持ちが一気に噴き出して。
 少しだけ、彼は泣いた。