1.新たな仲間と未開の大陸

 草原の大陸と、暗黒の帝国が、少しずつ遠くなってゆく――

 燃えるような紅い瞳と、腿までかかる長い黒髪を持つ少年エスティ・フィストは、鋭い瞳に遠ざかる大陸の残影を焼き付けていた。  そのやや斜め後ろで船のヘリにもたれかかって胡坐をかいているのは、スティン王弟ルオフォンデルスだが、いつもは豪快な笑いの浮かぶその顔も今ばかりはうかない。
 反対側には、フェア・ブロンドを風に遊ばせて、やはり浮かない顔で目を伏せる少女がいた。軍事大国ランドエバーの王女、ミルディン・ウィル・セシリス=ランドエバーである。彼女は船に乗ってからは、キャビンに寄りかかったまま一言も喋っていない。
 そして、彼らから距離をおくようにして独り船の後部で佇んでいるのは、シルバーブロンドにアメジストの瞳をした“カオスロード”ラルフィリエル――大陸中を恐怖に陥れた、セルティの混沌の軍勢を統べる無敗将軍その人だ。
 その四人を乗せた黒い軍艦の上には、奇妙な沈黙が重く居座っていた。こんなときシレアが居れば――ふと頭をめぐったその考えを、エスティは強く頭を振ることによって打ち消した。
 シレア・アレアル・リージア――もとい、シレア・ラティ・ヴェルニッシ。彼女が誰より慕っていた“兄”はもういないことを、どうやって彼女に伝えればいいのか。そもそもエスティ自身がまだそのことを受け入れられないというのに、そんなことはわからない。きっと、ミルディンやルオも似たようなことを考えているに相違なかった。だが、ラルフィリエルが何を考えているかはわからない。

 決して口に出ることのない様々な思いと傷を抱えたまま、彼らはサリステル大陸へと向かっていた。忘れられた、未開の大陸――そこは古代人にもっとも近い血と力を持つものの里があると言われている。


「……で、次は何処に行くんだ?」
 ラティンステル大陸で出立を告げた直後、ルオは概ねミラと同じことを訊いて来た。しかしエスティはすぐさまそれには答えず、しばし考え込む素振りを見せた。
「おいおい、今から考えるのかよ」
 ルオが呆れた声をあげるが事実そうなので、エスティには答えようがなかった。否、例え行き先が決まってないにしろ、言わなければならないことは沢山ある筈だった。だが何からどうやって口にして良いのか、そして果たしてそれを受け入れてもらえるのか、疑問や不安がさらに言葉を阻むのだ。そうやって訪れた静寂を破ったのは――人の気配の闖入と、それに伴う僅かな物音だった。
「ラルフィ?」
 その人物の名を呼ぶエスティは、だがその語尾に少し戸惑いを見せた。長く美しかったラルフィリエルのシルバーブロンドが、肩上でざっくりと切られているのに気付いたからだ。
「その髪……」
「私を」
 何か言いかけたエスティの言葉を遮って、ラルフィリエルは口を開いた。
「……一緒に連れて行って欲しい。虫が良いと、わかっている。でも……償いをするにも私一人では何もできない。それに、もし私が私の中にあるエインシェンティアを制御できなくなるようなことがあれば……、もし、皇帝が私の前に現れたなら。そのときは……エスティ。迷わず私を消して欲しいんだ」
 真っ直ぐにこちらを見据えて、ラルフィリエルは小さく、だがはっきりと呟いた。
「私はもう……誰も殺したくない」
 身震いがして、彼女は両手で自分の身体を包み込むように抱きしめた。血の匂いが、断末魔の叫びが、斃れてゆく人の姿が、自分の五感全てに焼きついて離れない。
「……言っただろ。お前にはもう誰も殺させやしないって。それに、オレはお前を消さない」
 エスティが有無を言わさぬ口調で応える。だが、
「お前の気持ちには、感謝している。でも、やっぱり私は……」
 ラルフィリエルは一度視線を落とすと、ミルディンへとそれを移した。そうしながら、ラルフィリエルは初めてこの少女と相対したときのことを思い出していた。忘れる筈もない。神竜の聖域で、無謀にも挑みかかってきたこの少女の瞳の奥にある、自分に対する感情は――憎悪。
 この瞳を、ラルフィリエルはずっと向けられ続けてきた。それを思うと、エスティの気持ちは嬉しかったのだが、やはり自分は今すぐにでも消えるべき存在なのだと罪悪の念と焦燥が消えない。
「わたし……ずっと考えてました」
 そうした邪気のない紫水晶の瞳に見つめられて、ミルディンは呟いた。
「わたしは……ずっとあなたを憎んできました。けど皇帝があなたを操っていたことを知って、憎むべきは皇帝なのだと……最初はそう思おうとしたのよ。でもね、アミルフィルド様を憎んでいる人も、……リューンを憎んでいる人も、いるのよね。けど、彼らは悪人ではなかった。そしてあなたもそうではないというなら、皇帝は?」
 たたみかけるように問いかけられ、一瞬ラルフィリエルが言葉に詰まる。だが彼女が何かを言うまでもなく、ミルディンは言葉を続けた。
「そこまで考えて、虚しくなった。だめよね……誰かを憎んで、それを糧に生きるなんて、寂しすぎる」
 自分に言い聞かせるように強く呟いて、ミルディンは言葉どおり、寂しげに微笑んだ。
「あなたが世界と目の前の命を秤にかけ血に染まったと言うならば、私もまた、国と騎士達の命を秤にかけて彼らを戦場へと誘った。そのわたしにあなたを裁く権利など、どうしてありましょう」
 すらすらと言葉は口に登って行くが、ミルディンとて最初は悩み迷い、葛藤した。事情はどうあれ、ラルフィリエルが自分の国を苦しめ続けた敵国の将軍である事実は変えられない。だが、それが戦であり、だから、戦を終わらせなければならないのだ。この憎しみを断ち切って。だから、ミルディンは微笑んだ。
「共に行きましょう。……ラルフィリエル」
「……ミルディン王女……」
 そんな彼女に何を言えばいいのか解らない。その強さがただ眩しく羨ましく、ラルフィリエルは黙って深く頭を下げた。しかしこれで問題が解決したわけではない。ここにいるのは、ミルディンだけではない。顔を上げると、ラルフィリエルは少し戸惑いながらルオの方を見た。それに気付いて、エスティが慌てて声を上げる。ラルフィリエルはレグラスでルオと直接会ってはいるものの、ルオがスティン王弟だということまでは知らないはずだ。
「あ……ラルフィ、彼は」
「俺はスティン王弟、ルオフォンデルス・ディオ・カシスォークだ。ルオでいいぜ」
 改めてルオを紹介しようとしたエスティを遮り、自ら気さくにルオは喋りかけた。初めてラルフィリエルに会ったときからそうだったが、ルオはラルフィリエルに対して、憎悪や敵意などといった感情を持っているようには見えない。スティンはセルティに投降した為ラルフィリエルと戦うことはなく、専ら皇帝に国をかく乱されていた。彼がカオスロード・ラルフィリエルに対し敵意がないのはその為か――それにしてもセルティには恨みを抱いているだろうにと、エスティが内心首を捻る。
「スティンの……」
 ラルフィリエルも同様のことを思ったのだろう、顔をしかめて唸った。だが相変わらずルオは裏のない笑みを見せたまま、
「あんたがついてくることに、俺はひとつ条件がある」
 びっと人差し指を立ててそんなことを言う。
 その言葉の内容に、ラルフィリエルと、安堵しかけていたエスティの顔には緊張が走った。だがルオが提示した条件は、二人が予想したものとは全く異なるものだった。
「俺と手合わせしてくれないか? 何、今じゃなくていいんだ。いつかでいい」
 予想もしなかった条件に、だがラルフィリエルは覚悟の顔を緩めた。そんなことで良いとは思わなかった。
「そんなことで良いなら……私は構わないが……」
「じゃあ俺に依存はないぜ。よろしく、姉ちゃん」
 差し出されたルオの手を戸惑いがちに握るラルフィリエルを見、エスティはほっと胸を撫で下ろした。ラルフィリエルが言い出さずとも、エスティは元より彼女を連れて行く気でいた。しかし、ルオとミルディンがそれを受け入れてくれるかがずっと気がかりだったのだ。
 何をどう考えても、ラルフィリエルは消されるべきだった。
 そうしないのは自分の我儘にすぎないのに、何も言わず解ってくれた二人に胸の中で深く感謝しながらエスティは口を開いた。
「……次に行く場所だが。どうすればいいか、オレもずっと考えていた。ラルフィを消せないからといって今のままの危険な状態にしておくわけにもいかないし、皇帝も放ってはおけないだろう。だけどオレは正直、ラルフィのエインシェンティアについても、禁忌というだけで詳しいことは何も知らないし、皇帝については全くわからない……」
 やや自嘲的にそう呟いて、一度言葉を止めてうなだれる。だが、すぐに顔を上げると、エスティは告げた。
「……サリステル大陸に、渡ってみようかと思っている」
 エスティの結論に、ミルディンは表情に驚愕を表し、ラルフィリエルは納得したかのように冷静に表情を引き締めた。
「あの、未開の大陸にですか?」
「古代人にもっとも近い血と力を持つ民……か」
 双方の言葉に、エスティが頷く。
「ラルフィのエインシェンティアや皇帝をなんとかするにも、今のオレには知識も力も足りないと思うんだ。でも、あの大陸に行けばなにかわかるかもしれない」
「でもどうやって行くんだ? その手段がないから未だ未開なんじゃねぇか」
 サリステル大陸は、ここラティンステル大陸から遥か東にあるとされる未開の大陸である。古代文明発祥の地とされるその大陸には“エルダナ”という聖域があり、そこに“リダ”という古代人の末裔が住む隠れ里があるとされているが、そんなものはお伽噺と言っても過言ではない伝承で、それが本当なのかは誰も知らない。それはサリステル大陸が断崖絶壁に囲まれた人を寄せ付けない大陸である故為である。
 ルオの疑問は尤もなものと言えたが、そんなことはエスティも百も承知だ。
「ラルフィは、“転送呪(テレポートスペル)”を使えるよな?」
 スペルこそ発していないが、彼女はいつも銀色の風と共に現れ、そして去っていた。あれはテレポート・スペルに相違ないだろう。確信に満ちた問いに、やはりラルフィリエルは首を縦に振った。
「ああ、使えるが……。私一人なら隣の大陸ぐらいまでは飛べるが、誰かを連れて、それもサリステルまで飛ぶことは不可能だ。私自身行ったこともない土地だし」
「それはわかってる。何もここから飛ぶとは言っていないさ。ただ断崖絶壁で船の乗り入れ場所がないというならば」
 皆まで言わずともラルフィリエルは理解したようだった。
 多くの距離をとぶことは術者に莫大な負担がかかるが、その距離が近ければ近いほど、テレポート・スペルの発動、行使は容易となる。いかなる絶壁があろうとも、とぶ距離には影響しない。即ち、船で大陸まで行き、そこから大陸までをテレポート・スペルで渡ろうというのである。
「でも、船は壊れて……」
 ミルディンの呟きに、ルオが呆れたように彼女を見た。
「おいおい、もう忘れたのか? 言ったろ、使えるもんは使う、もらえるもんはもらう」
 ルオが大剣を担ぎ上げ、立ち上がる。
「ああ、そうだ。セルティの海上国境警備軍から一隻失敬する」
 ラルフィを仰ぎ見ると、彼女は意図を察したように頷いた。
「基地まで案内しよう」
 言うなりラルフィリエルも立ち上がる。
「ラルフィ。もう……いいのか?」
 すぐにでも行動に移りそうな彼女を見、言い難そうにエスティがそう言うと、ラルフィリエルは微笑みを浮かべた。
 哀しい、切ない、儚い笑みは、“彼”によく似ていた。
「……うん。いいんだ……傍に、いるから」
 短くなった髪をかきあげて、ラルフィリエルが消え入りそうな声でそう言ったので、エスティももうそれ以上は何も言わなかった。
「わかった。それじゃ出立する。船を奪ったら一度リルステルに寄って船旅の準備を整えよう。……長い旅になるだろうしな」
「待って、エスティ。あの……」
 自らも腰を浮かせたエスティに、慌てたようにミルディンが声をあげる。が、彼女が何を言わんとしているかはわかっていた。恐らく、ラティンステル大陸付近で海に消えたアルフェスのことが気がかりなのだろう。
「アルフェスのことなら、結論から言ってこの付近にはいない。彼ほどの光の力が強ければ魔力を辿ることは簡単だが、その気配がないんだ」
 彼女にとっては酷な事実を、エスティははっきりと告げた。都合の良い嘘をついても、事実アルフェスが見つからなければ気休めにもならない。それはミルディン自身にも解っているだろうが、それでも力なくうなだれる彼女を見かね、ルオが励ますように彼女の肩をポンと叩いた。
「大丈夫だ、ミラ。あいつは主君を長い間放っとくような無責任な騎士じゃない。そうだろ?」
 ルオの瞳は、アルフェスの生還を少しも疑ってはいない。それがわかってミルディンも微笑んだ。
「……はい。ありがとう、ルオ」
 そう、彼はかつて何度も死地に赴き、死線を潜り、だが必ずその都度自分の元へ帰ってきた。自分が誰よりも信じなければ。そう思ったら冷静になれた。だから。
「ごめんなさい。行きましょう、エスティ」
 最後に、ミルディンが立ち上がる。

 目指すは、忘れられた未開の地、サリステル――

 そこに、求める答えがあるかどうかはわからない。しかし、このままここで燻り続けていても、絶対に何も変わらない。
 立ち上がり、前へ進む。何時如何なるときも、どんなことも、全てはそこから始まるのだ。