16.葬失

 里の傍の川辺に腰を降ろし、エスティは深い溜め息をついた。
 ――行かなければ。
 それは解っているのだが、何をする気力も沸いてこない。そうやって燻っていても、叱咤激励してくれる友はもういない。頭を抱えてうずくまっていると、ふいに背後に気配を感じた。
「エスティ」
 遠慮がちに名を呼ぶその声で、気配の主が知れる。
「……ミラ」
 頭を伏せたまま、声の名を口にする。彼女は少しの間どうするか悩んでいたようだったが、やがて隣に腰をおろした。
「大丈夫ですか」
 そう聞くのも変に思われたが、他になんと言って良いかわからず、ミルディンがそんなことを口にする。
「ああ……。昨日はすまなかったな」
「いえ。わたしも……あのときは取り乱してしまって。あなたの方が、ずっとずっと、辛い筈なのに」
 目を伏せ、沈痛な面持ちでミルディンがそう言うのに、エスティは顔を上げて微笑んだ。
 辛かったのは彼女も同じだろう。王族であるにも関わらず弱音を吐くことなきここまで戦いを乗り越え、だがアルフェスは行方不明になり、そんな中でのリューンの死――ミルディンも相当にショックを受けた筈だ。だが気丈にも彼女は耐えている。
 それなのに八つ当たりした挙句、歩き出す気力さえ失いかけていたのが恥ずかしく、だから彼は決意した。
「……今日中に、ここを発とうと思うんだ」
 後ろ向きになる気持ちを吹き飛ばすようにエスティが努めて明るく言う。
「今度は何処へ?」
「それは……わからないけれど。オレの目的は、ラルフィリエルを消去することだった。それが出来ない今……オレはどうしたらいいのかわからない」
 それは勝気な彼にしては珍しい、弱音に近い発言だった。だがだからと言って、今の彼を叱咤しようなどという気はとてもではないがミルディンには起こらず、彼女はただうなだれた。
「……訊いても良いですか」
 しばらく透明な川のせせらぎを見るともなしに見つめていたのだが、やがて遠慮勝ちにミルディンは呟いた。
「何だ?」
 ラルフィリエルがリューンの実妹であること、彼女が殺戮を繰り返していたのは皇帝にそれを余儀なくさせられていたからであることなどは、既に彼女にも話してあった。
 彼女の死は世界の滅びにも等しいこと、そして他ならぬエスティ自身の目的も。
 だがそれでも彼女にとってはわからないことだらけだろう――ここ暫くの間に、あまりにも色々なことがありすぎた。
 エスティが快諾すると、ミルディンは言葉を選ぶように、ゆっくりと訊いてきた。
「その。皇帝は何故――リューンの妹さんを?」
 訊かれて、再びエスティが俯く。
 しばしの間沈黙が2人の間に訪れたが、ミルディンは辛抱強く答えを待った。川のせせらぎがやけにうるさく耳につく。
「――前、ラトが言っていただろう。古代の力と現代の力は相合わない、と。オレ達が魔力と呼ぶもの、その性質が古代人と現代人とでは違うみたいだ。現代人が古代人のような力の行使ができないのは、単に魔力が衰退したからというのもあるがそういう理由もある」
 やがてエスティは口を開くと語り出した。川の音にかきけされそうな程弱々しいその声を、ひとつも聞き逃すまいとでもするように真剣な表情で彼女はじっと耳を傾けている。
「だが、古代の力の片鱗を持って生まれてくる者も、まだいるみたいだな。その力の程度に差はあるが、セレシアやリューンの瞳には、古代の力、若しくはそれによく似たものが宿っていたのだろう。だから彼らは“依(よりしろ)”になれた。けれど禁忌のエインシェンティアを宿すには、古代の力の片鱗ぐらいじゃ無理だ。だから、皇帝は探したんだろう。完全に、古代の力をその身に宿して生まれて来る者を」
「……そんな人が」
「いるもいないも、事実ラルフィはそうだったから、依になっている。そして……オレ自身も、な」
 泣き笑いのような顔でこちらを見つめるエスティを、ミルディンは驚いたように鮮やかな青い瞳を大きく見開いて、見つめ返した。
「エスティ……も?」
「ああ」
 広げた自分の手の平に視線を落として、エスティが肯定の声をあげる。
「幼いとき、オレは魔法を使えなかった。父さんは、オレに魔力がないからだって言ってた。事実魔法の力は目に見えて衰退しているし、これからはそういう者が生まれても珍しくないってな。けど、全く逆だった。オレは古代の力を持っていたから、現代の魔法が使えないだけ。精霊はオレの力を恐れて“契約”に応じなかった。だからオレは“使役”でしか魔法を使わない」
 一息にそう言うと、自分の手を見つめたままエスティは苦笑した。
 実際のところは、わざわざ“使役”という形式に則ってスペルを唱えるまでもなく、デリートシステムを宿すことによって強化されている今の自分なら、支配力こそ劣るもののラルフィリエルのようにスペル無しで全精霊を使役することも可能だろう――
 いや、それ以上の力が自分にはあるのかもしれない。リューンが倒れたときに目覚めかけた力の波動を思い出し、彼は身震いした。
 そして、ほっとする。
 力を恐れるうちは、力に溺れたりはしない。強大な力を手にすると、人は変わってしまう。エシンシェンティアを探す旅をしてきて、そのような者を彼は嫌というほど見てきた。そう、エルザスもその一人だっただろう。いつか自分もそうなってしまうのだろうか――
 そんな恐怖が頭から離れず、彼は無意識にも意識的にも、自分の力を拒否してきた。
 それが、デリート・システムを完全に制御できない理由なのかもしれない。
(でもオレが、ちゃんとこの力の全てを使っていたら……リューンを死なせずに済んだ……?)
 そこまで考えて、エスティは軽く頭を振った。
(違う。リューンがいたから、オレは、力に溺れずに済んだんだ。こんな力は……あってはいけないんだ)
 ぐっ、と手の平を握り締める。その手に、白い手がそっと添えられ、エスティははっとしてミルディンを見た。
「不思議ね、エスティ。大きな力を持っているのに、あなたの周りには安息があるわ」
 手を重ねたまま、ミルディンがたおやかに笑う。
「……ありがとう。でももし、そうなんだとしたら」
 ミルディンが手を引き、エスティは立ち上がった。そして里に向けて歩き出す。ルオにも出立を伝えなければならないだろう。
 その後を、ミルディンが小走りに追いかけると、首だけでエスティは彼女を振り仰いだ。

「そうだとしたら、それは……リューンのお蔭、かな」

 小さな声を受け止めて、ミルディンは少し泣きそうな顔をしたが、にっこりと微笑った。
 

 セルティ帝国の勢いは、“カオスロード”ラルフィリエルを失っても衰える気配を一向に見せなかった。その存在が帝国から消えたことを人々が知る由もなく、大陸の者達が日々その影に脅える中、ついにファラステル大陸にまで皇帝ガルヴァリエルはその手を伸ばす。
 一方リルステル大陸からも完全にセルティ軍の姿が消えたわけではなく、騎士団を失ったままであるスティン王国、そしてあろうころか王女と騎士団の総隊長を欠いているランドエバー聖王国は極度の緊張を強いられていたが、皇帝はそれらの国には手を出すことなく、専らファラステルの強国を陥とすことに心を砕いていた――。