14.黄昏る大地の兄と妹

 エスティとラルフィリエルがリューンと別れた場所に戻ったとき、既にそこに彼の姿はなかった。消えたのは彼だけでなく、あれほどいたセルティ兵も、その影を消している。ただ草を染め抜く黒々とした血は、彼らがそこにいたことを証明していた。
「リューン……」
 ここまで全力で走ってきたために荒い息を吐きながら、エスティは友の名を呟いた。返事はない。だが、ラルフィリエルは顔を上げた。それに気付いてエスティも彼女の視線を追う。その先で、光をなびかせて空を滑る、白銀の鳥が翼をはためかせた。
「ラト!」
 それが鳥でないことには、すぐに気付く。穏やかだが肌を掠める力の奔流がそれを示す。――ミルディンの召喚獣、エインシェンティア・ラルトフェルテデスだった。彼はこちらの頭上で、つい、と円を描くように翔ぶと、ついてこいというようにこちらを僅かに振り仰ぎながら東の方へ翔び去った。
「行こう、ラルフィ。リューンはきっと無事だ。仲間と合流してる」
 明るい声を上げて、ラルフィリエルの手を引き、エスティは走り出した。
 この場所にラトがいるということは、リューンがミルディン、そして恐らくルオとも合流している可能性が高いということだ。ミルディンは回生呪(リザレクトスペル)を使えるし、ルオがいればセルティ兵にやられることもないだろう。少なからず安堵して、エスティはラトの残す光の軌跡を追うことに集中した。
 いくらもしないうちに再び草原を抜けて荒地に至り、やがて小さな集落が見える。
「こんなところに、集落が……」
 ふいに、ラルフィリエルが立ち止まって、繋いだ手が離れる。
「ラルフィ?」
「……恐らく、暴発で生き残った者たちの隠れ里だ。もしかしたら私の姿を知る者がいるかも」
 今更ながら、エスティは彼女がラティンステルの、いやセルティと戦った全ての国に生きる者の憎しみの象徴であることを思い出す。ほんの少し前までは自分も彼女を憎んでいたというのに、忘れるくらいに自分の中からその気持ちが綺麗に消えていることに驚きつつ、エスティは小刻みに震える彼女にそっと近づいた。そして彼女の纏う深紅のマントを外して、それをすっぽりと頭から被せてやる。
「これで、もしお前の姿を見た者がいたとしてもわからないさ。さぁ、早く行こう。……リューンが待ってる」
 エスティは再びラルフィリエルの手を取ると歩き出した。ラトは既に集落の中へと消えていた。


「……シェオリオ……」
 呟きが聞こえてミルディンははっと顔をあげた。
 ――あの後、ルオの後を追って走り、辿りついたこの小さな集落に宿などなかったが、リューンの怪我を見た集落の民達は、自らも帝国に迫害される身でありながら親身になってくれ、部屋まで貸してくれた。
「リューン!?」
 意識が戻ったのかとはやる気持ちで声をかけるが、それ以上の応答はない。浮かしかけた腰をまた降ろし、微笑みを結びかけた顔がまた曇る。
 今まで休むことなくリザレクトスペルをかけ続けた為に、疲労が激しいが、それでもミルディンはリューンを診つづけていた。その甲斐あって、傷は綺麗に塞がったが、いくらリザレクトスペルといえども、大量に失った血液までもを一気に生成できるわけではない。魔法の力が衰退している現代にあっては尚のこと、その治癒力は万能ではないのだ。血の気を失ってぐったりするリューンは、息があるのが不思議なくらいの状態だった。
「シェオリオって……妹さんの名前ですよね」
 悲痛な表情でミルディンは問いかけた。答えはないが、その名は、あの夜シレアから聞いて知っていた。
 シレアの想いを知るミルディンとしては、生と死の狭間で彼が口にする名がシレアではないことには複雑な思いを禁じえない。だが、彼がそこまで想う妹ならば、今ここに現れて欲しい、そうも思う。そうすればリューンの意識も戻るかもしれないのに――
 気配を感じたのは、そんなことを考えていた矢先だった。部屋に、ルオとラトが飛び込んでくる。
「エスティが来たぜ!」
 ルオが明るい表情で言い、ラトはそのままついと宙を滑ってミルディンの肩に止まった。
『……あの娘も一緒だがな』
「あの娘?」
 何気なく言うラトの言葉を聞きとがめ、ミラがおうむ返しに問う。だが、その答えはラトの口から聞くまでもなくすぐに知れた。
 エスティと共に部屋に入ってきた、深紅の外套を頭から被った不審な人物――その外套の奥の、銀の輝きが見えた一瞬に。
「あ……あなたは……!」
「ミラ!」
 叫びかけたミルディンをエスティが鋭い声で制し、彼女は言葉の続きを呑み込んだ。ここでその通り名を叫べばどうなるかくらいは、ミルディンにも分かる。察してくれたミルディンにひとまず息をついてから、だがその後息を吸う暇も惜しんですぐにエスティは尋ねた。
「リューンは……」
「……傷は、治した。でも……」
 途端ミルディンの表情が歪む。どれほど認めたくなくても、彼を診た自分が一番良くわかっている。ミルディンのそんな表情で、エスティもラルフィリエルも、リューンの状態が思わしくないことを嫌でも思い知らされた。
 ルオが部屋の戸を閉めると同時に、ラルフィリエルが外套を取り払ってリューンへと走り寄る。そして、それを待っていたかのように――
 リューンは隻眼を開いた。
「……ラルフィ?」
 その視線を彼女に向ける前に、彼は呟いた。
 リューンが何者なのか、ラルフィリエルは知らない。覚えていない。それでも涙が溢れた。 理屈ではない感覚が体の中にある。 記憶になくても憶えている。彼が自分にとって、大事な人であることを――
「お願い……死なないで。私、ずっとあなたを待っていたのに」
「……ぼくを覚えているの?」
 瞳を見開いて尋ねるリューン取り縋り、だがラルフィリエルは首を横に振った。
「私には記憶がない。でも……わかる。私、あなたを待ってた」
 何故そう思うのかは自分でもわからない。でも自然に言葉が出る。それなのに彼を思い出すことができないのが酷くもどかしかった。
「ごめんなさい。私はあなたを覚えていない……!」
 どうしても思い出せない。大事な記憶だったはずなのに、忘れてはいけないことだったのに、思い出せない自分が腹立たしかった。そして、これほど想ってもらっているのにと思うと、罪悪感という名の鎖が強く心を絞めつけた。
 だが、それを吹き飛ばすように、リューンは微笑んだ。
「いいんだよ」
 そっと伸ばされた彼の手を、ラルフィリエルが強く握り締める。
「いいんだ……憶えていてくれなくても。お前が……生きていてくれたなら」
 微かな抵抗を感じてラルフィリエルが手を離すと、リューンはさらに手を伸ばして彼女の髪を愛おしそうに撫でた。

 彼女が何も覚えていないことに寂しさがないといえば嘘だ。
 自分を思い出して欲しいと願っていたことも事実だ。
 だけど、彼女が生きているならば――そして幸せになってくれるならば。
 それ以上望むことなど何もない。

 リューンの瞳がラルフィリエルを捉え、そしてその瞬間、リューンは全てが満たされたのを感じた。
 救われたのを感じた。

(彼女の心はぼくを覚えている。シェラを救えなかった……何も護れなかったぼくを……。こんなに幸せなことはないよ)

 ゆっくりと、リューンは隻眼を閉じた。そのまま安寧の場所の出迎えに身を委ねる。
「い、嫌ッ」
 遠くで涙混じりの叫びが聞こえ、リューンは泣かないでと言おうとしたが、もう声にならなかった。
「嫌だ、いかないで……! ねえ、私の……私の名前を、本当の、名前を教えて……! あなたは知ってるんでしょ……? 私の名を呼んで、私の傍に居て……! おねがい!!」
 リューンが力の入らない手を動かす。滑らかな髪から暖かなな肌に感触が変わる。涙に濡れた彼女の頬に手を当てて、彼は優しく――儚く、微笑んだ。

「さよなら……シェオリオ」

 力を失って、頬に触れた手が落ちる。

「い……や……」
 ラルフィリエルが声をあげる。だが実際には、僅かに息が漏れただけだった。その隣で落ちた声も、似たような掠れ声だった。
「リューン……?」
 呆然としながら、エスティがラルフィリエルを押しのけてその体を掴む。
「嘘だろ……? なぁ……オレが死んだらお前が泣くんだろ……? オレは……ッ、てめぇが死んでも泣いてなんかやらねぇぞ!?」
 つと、頬を何かが伝っていくのに気付かないまま叫ぶ。だがミルディンが虚ろな瞳をしたままリザレクトスペルの印を切るのに気付くと、彼は過剰なまでに強くその手を掴んで止めた。
「やめろよッ! そんなものもう意味なんかねぇんだよ……!!」
 叫ぶ。その力の強さとあまりの勢いにミルディンが転倒し、あわててルオが駆け寄った。だが彼が仲裁に入る前に、ミルディンはエスティの手を自力で振り払って叫び返した。
「離して……!! リューンを助けなきゃ……! だって、わたし、まだ励まされたお礼、言ってないのよ……! それに、それに……わたし、シレアになんて言えばいいのよぉッ!!!」
 振り解いた手をエスティに滅茶苦茶に打ち付けながら、彼女はぼろぼろと幾筋も涙を流した。
「ちくしょう……」
 ルオがそんな二人から目を背けて呻く。その中で、ラルフィリエルは静かに涙を流しながら微笑んでいた。凍りついたように、リューンを見下ろしたまま、穏やかな声を紡ぐ。
「ねえ……もう一度……もう一度呼んでよ。あなたは……誰? 私は誰なの? 教えて……」
 泣き笑いの顔でリューンを揺すり続ける。そうすれば、彼は目を覚ます。そう信じて疑わない目で。
「教えてよ……」
 だが、もう彼は決して応えはしない。
 最愛の者が、声を枯らして、呼んでも。