12.虚無との邂逅 〜あの日から〜

 その気配に向かって、エスティは駆けた。その力の大きさ故に、彼女を追うことは容易い。
 彼女を追って駆けるうちに、いつしか草原を抜け、荒地に至った。おそらく暴発の爪痕だろう。深すぎる傷に、まだ再生が追い付かない。戦の炎より、エインシェンティアの滅びの咆哮は根深い。その事実には胸が痛むが、岩や瓦礫が多くなってきたのでセルティ兵はうまく撒くことができた。そうしながら走り続けていると、荒地はやがて崖へと突き当たった。そしてその崖に向かい、彼女は立っていた。
 崖を吹きぬけて行く風が、その長いシルバーブロンドを巻き上げてゆく。
「ラルフィリエル」
 呼んでも彼女は応えなかった。その代わりにゆっくりとこちらを振り向く。光を失ったアメジストの瞳は死人のようだ。
「……私は、ラルフィリエル・E・レオナリア。皇帝の殺人人形だ」
「……ラルフィ」
 彼女に声が届いているかどうかは疑問だったが、もう一度エスティは彼女を呼んだ。そしてゆっくりと歩み寄る。
「私は幾度となくこの手を血に染めた。皇帝からの指令のままに」
 手を自分の目の前までもちあげ、開く。その色は抜けるように白かったが、ラルフィリエルには、それがいつでも血染めに見えた。
「ずっと消えてしまいたかった。でもできなかった。この身に宿る、力ゆえに」
「……皇帝は、お前を暴発させると言ったのか」
 至近距離まで来て立ち止まり、そう言ったエスティを――はじめてアメジストの瞳は写し取ったようだった。
「お前が宿すエインシェンティアは――」
「そうだ。私がお前の探す、禁忌のエインシェンティア」
 深紅の瞳を真っ直ぐに見つめ、ラルフィリエルが応える。
「だが私の制御は不完全だ。この状態のまま私が死ぬようなことがあれば、このエインシェンティア、“ラルフィリエル”は暴発する。そうすれば、おそらく……」
「滅ぶだろうな。この大陸――いや、この世界、そのものが」
 彼女の言葉をエスティが継ぐ。突拍子もないような言葉だったが、ラルフィリエルはすぐに頷いて、うなだれた。
「そう……だから、私は“ラルフィリエル”になった日から、皇帝の玩具になった。壊せといわれれば壊し、殺せと言われれば殺した。彼の言うままに」
 吐き捨てる。そうせざるを得なかったとはいえ、許されない罪を繰り返してきた自分はもう救いようもない。そう思いながら。
「世界と目の前の命を天秤にかけてきた。だけど、お前の言うとおり――それは、天秤にかけれるものじゃなかったな」
「あ……」
 深い自嘲が籠ったラルフィリエルの言葉に、エスティはレグラスで彼女を責めたとき、彼女が泣き出しそうな顔をした理由を知った。あのとき責めたことを悔いるエスティの目の前で、ラルフィリエルが涙を零す。
「お前の力もまた不完全だ。その力が私に干渉して無事に済む保証はない。だけど、私が抗わなければお前の力も通じるかもしれない。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。……もう限界だったんだ。だがお前にそれを頼む術がなかった。私は指令の通り、お前に剣を向けるしかできず、あんな手段しか……その所為で……」
 リューンを斬ってしまったことを思い出し、ラルフィリエルは自分の体を両手で抱いて身震いした。
「“エスティ・フィストを消せ”。それが新たな指令だ。いずれ私を滅ぼす者だから。……笑わせる、それこそ私が望むことだというのに」
「……」
 震えながら言葉を零すラルフィリエルからは実際に乾いた笑いが零れた。涙と笑いを同時に零す少女の美しさが痛々しく、エスティは何も言えないまま彼女を見つめていた。
「さあ早く……皇帝に見咎めるられる前に一刻も早く、お前のその力で私を消してくれ」
「…………オレは」
 乾いた声は意味を成さない言葉を紡いで、だがそれも喉の奥にひっかかってただの呻きに変わった。
 もう随分長い間、禁忌のエインシェンティアを探し続け――そしてそれを消すことを目的としてきた。この力を手にした“あの日”から、そう“教えられて”きたのだ。
 力を極め、古代人がエインシェンティアを創り出した頃――その力を恐れ、それに対抗できる手段を封印したエインシェンティアを創り出した古代人がいた。
 その力を手にした、あの日から――。


「この古代秘宝は――?」
 遺跡の奥に、畏怖が入り混じった父の声がこだまする。遺跡調査家である父と祖父の後をこっそりつけてきた幼いエスティは、そちらの方をそっと窺った。厳かな祭壇に、小さな箱が乗っているのが見える。父の言葉はどうやらそれを指したようだ。
「……すごい、力だな。おそらくこれの“(よりしろ)”になれるものは、いまい……」
「また、こんなものを見つけてしまった」
 冷静な祖父に対して、父は幾分か錯乱したかのように、絶望的に吐き捨てた。
「私がこんなものを発掘したばかりに……戦争が始まってしまった。これは、ずっと眠らせておくべきだったのに!」
 その剣幕に、思わずエスティはびくっと体を奮わせた。温厚な父が声を荒げることなど普段ではまずなかったからだ。
「過ぎたことを言っても、時間は戻ってはこんよ、ディラルド。それにお前がこれを見つけなくても、いつかは誰かの手によって見つけられた。……嘆いても詮無い。最善を尽くすことだ。少しでも、悪意ある者から古代秘宝を護れるように」
 うなだれてしまった父の肩を、祖父が優しく叩く。
「そう……ですね。父さん。――ここは封印(シールド)しましょう。何人も立ち入れぬように」
 父のその言葉を最後に、もう二人が言葉を交わすことはなかった。足音がこっちに向かってくるのに気付き、エスティは慌てて身を潜めた。だが彼らをやり過ごしてしまうと、エスティは意気揚揚と飛び出した。
(封印される前に、一度その秘宝とやらを拝んでやるか!)
 幼さ故の強い好奇心が、“禁忌なるもの”とやらを求める。それがどんなものなのか――どれほどの魔力を持つものなのか。“魔法が使えない”エスティにとって、古代秘宝は何より興味深いものだったのだ。急ぎ足に祭壇へ向かう。封印のスペルが終わる前にここを出なければ洒落にならないことになる。
「へぇ……こんな小さなものが、そんなに力があるものなんだ」
 感心して箱を見上げるエスティの頭の中に、声が響いたのはそのときだった。