8.銀の殺意

 近い。
 昨晩よりももっと。さっきよりも、もっと。
 刻一刻と、近づいてくるのがわかる。引き寄せられているのだろう――自分の魔力に。
 力を示せば、きっと“彼ら”はやってくる。
 自分を殺す為に。
 そして、自分は彼を殺す為に――

 ただ精霊を集め、剣を振るい続ける。


『“我が御名において命ず! 焔よ!”』

 逆巻く炎は、いつもの何倍もの勢いで迸る。
「精霊の数が多すぎて、うまくコントロールできないな……」
 数十人もの兵を飲み込んでしまった炎に、エスティは嘆息した。
「エス……、近いよ。“彼女”だ」
「ああわかってる」
 低く唸るリューンに言葉を返し、エスティは炎の中から尚も襲い来るセルティ兵に剣を構えた――だが、彼の斬撃が閃く前に、バタリと兵が倒れる。
「……え?」
 鮮血を撒き散らして倒れた兵に、一瞬エスティは呆然とした。その後ろから、炎の紅に体を染めた“彼女”が現れるまで。
「必ず来ると……思っていた」
 万人を魅了する笑みで、美しい声を紡いで戦いの女神が姿を現す。
「……久しぶりだな、ラルフィリエル」
 彼女の全身から発せられる殺気に思わず身震いしながら、エスティはその名を呼んだ。
「今度こそオレを殺しに?」
 背中を冷たい汗が伝う。そこにいるだけで圧倒されてしまうプレッシャーに、息がつまりそうだ。だがそんな威圧に耐える時間は長くはなかった。問いかけに返事はなく、返ってきたのは鋭い斬撃。
「……ッ!!」
 咄嗟に受けて、そして弾くと、エスティはいったん後ろに退いて間合いを取った。敵は彼女だけではない。次から次へと現れるセルティ兵の相手もせねばならない。だがその危惧とは裏腹に、もうセルティ兵はエスティ達の方には向かってはこなくなった。その標的となっているのは専らラルフィリエルの方だということに直に気付く。
「……どういうことだ?」
 気付いてすぐに、エスティは怪訝な声を上げた。
「何故セルティ兵がお前を襲う?」
「関係ない」
 短く答えてラルフィリエルは地を蹴った。素晴らしいスピードで迫るラルフィリエルの攻撃を辛うじて避ける。
「やはりこの魔力の源はお前だったのか? お前がここで力を行使していたんだな? なんでこんなことを……」
 攻防を続けながらエスティが尚も問うが、苛立ちも露わにラルフィリエルは乱暴にエスティの剣を撥ね上げた。
「それが何か関係あるか? 私がお前を殺すことに!」
 ギィン!!
 振り下ろされた彼女の渾身の一撃をなんとか受け止める。重い金属音。力の膠着になり、それを避ける為に一度彼女が剣を退く。それを視界に見止めると、エスティは剣を下ろした。
「何をしている! 殺されたくなくば構えろ!!」
「何を焦っている?」
 荒く叫ぶラルフィリエルに、対照的にエスティは静かに問いかけた。
「なんだと?」
「今日は随分と饒舌じゃないか。お前の様子が違うことくらいオレでもわかる」
「フン、知ったような口を……」
 剣を退いて空を切り、ラルフィリエルが吐き捨てる。
「お前……自分で気付かないのか? そんな風に毒づいたことが今まであったか?」
 鋭く切り返され、はっとする。だがラルフィリエルの表情に動揺のようなものが過ったのは、ほんの一瞬にも満たない時間だった。
「……そうだな。なら、きっと」
 再び剣を構えなおし、彼女は冷笑を浮かべた。
「お前を殺したくて、気が高ぶっているからだ」
「ラル……!」
 繰り出される連撃をかわしきれず、見る間に傷だらけになっていく。
(本気だ……!)
 エスティは確信した。今までとは比較にならない洗練された鋭い剣撃。これまでの虚無と愛惜に満ちた彼女ではない。そこには明らかな殺意が存在した。
(リスクは大きいが……デリートスペルにしか勝機はない……!)
 エスティの剣の腕も素人ではない。だあらとて、ルオやアルフェスのような達人には程遠いものだ。あのアルフェスが競り負けた相手とまともに戦い、勝てる気はしなかった。だが魔法に頼ったところで、彼女に精霊魔法は通じない。支配力に圧倒的差があるからだ。しかも、ラルフィリエルはまだノースペルの魔法もある。
 だが、デリートスペルを使うには、スペルを詠唱する時間を稼がねばならない。その時間を彼女がくれるとは考え難かった。とっさにリューンを振り返るが、彼もセルティ兵の相手をするだけで精一杯のようで、表情に余裕はなかった。
 戦いが辛いのではないだろう。
 彼女と向き合う余裕がないのか――とにかくリューンは当てになりそうになかった。
「……!」
 その瞬間、何の前触れもなく風の刃が巻き起こった。とっさにシールドを張るがたいして意味は成さず、肌が切り裂かれる痛みと同時に風圧に吹き飛ばされて、体をしたたかに地面にうちつける。だが、豊富に生えた草が、ほんの少しだけその衝撃を和らげてくれた。
(……草?)
 その感触に、彼は初めて戦いのうちに草原まで出てきていたことを知った。
 リルステル大陸に荒野が多いのに対して、ラティンステル大陸はそのほとんどを草原が占めていた。だが、相次ぐエインシェンティアの暴発や戦火によって、近年それも見る影もなくなっていたのだが――
(まだ生き残っているステップもあったんだな)
 こんな状況なのにふと笑みがこぼれる。
 封じたはずの記憶の奥から故郷の景色が蘇る――それは、緑なす草原だった。だが近づく殺気に、彼は笑みも感傷も消した。真上からの一撃を横転してかわす。狙いはただ一点。
 痛みの走る体を起こすと、その勢いを殺さぬまま、エスティは剣を持つ手をめがけて、剣の柄を渾身の力で打ち出した。意外にも確かな手ごたえが伝わり、彼女は剣を取り落とす。すかさず彼女の間合いにつめこむが、
「風よ」
 彼女の囁きと共に再び巻き起こる風の刃に阻まれる。またも吹き飛ばされて、彼女との距離がかなり開く。だがそれは好都合と言えた。
(この間にデリートスペルで彼女の力を無効化し……そこを押さえるしかない)
 彼女を止めて、そしてどうするのかはわからない。
 だがこのまま死ぬわけにもいかない――
 ラルフィリエルが走り出す。迷っている時間はない。
 エスティは印を切った。
 相変わらずの速さでぐんぐんと彼女は近づいてくる。

『“我が御名において命ず! 冥界の深奥に住まう冥府の主、我が魂を喰らいて出でよ!”』

 彼女のスピードを測る。次に距離を、そして最後にスペルの詠唱時間を。それらを計算して、答えを弾き出す。
(彼女の剣がオレを貫く、その直前――)
 銀の輝きと剣の閃きが迫る。エスティは目を伏せた。
『“汝の力で以って、彼の力を……”』
 焦燥感を、捨てる。
『“死兆の星の彼方へと還さん!”』
 スペルが完成する。あとは、具現を促すただ一言。ラルフィリエルの剣が間近に迫るのが気配で知れた。

『“物質(ライフ)……”』

 だが、彼の声はそこで止まった。ふいなる気配の闖入に目を開いて、時間が止まる。
 エスティの視界いっぱいに、亜麻色の髪が広がった。その先で、ラルフィリエルも時間が止まったように凍り付いていた。見開かれたアメジストの双眸に、舞い散る鮮血が写し取られる。

 その彼女の剣に貫かれた彼だけが、穏やかな時間を刻んで微笑んでいた。