7.ぼくは無様に生き続ける

「危ない!!」
 咄嗟にエスティが警告を叫ぶ。その声は、雨音と船の軋む音を縫って皆に届きはしただろうが、意味はなかっただろう。濡れて肌に張り付く髪を振り払うのさえ忘れて、一瞬呆然とする。が、
「きゃああッ!!」
 その悲鳴にはっと我に返った。激しい揺れにミルディンがバランスを崩して転倒し、傾いた船から黒い海へと吸い込まれて行くのが、やけにゆっくりと目から脳に流れ込んでくる。
「……ッ!」
 間に合うかどうかは絶望的だったが、それでもエスティが駆け出そうと体勢を整える。だがそれより前に、間一髪リューンが彼女の手を掴んでいた。しかしこの揺れである、リューンとてミルディンを引き上げるのは容易ではない。道連れに海に投げ出される方が、ずっと確率は高い。
「姫ッ」
 その状況を見たアルフェスがまともに顔色を変える――しかしそれこそが命取りだった。その動揺は、体調不良とも相まって、脳裏に走った危険信号を完全に遮断した。その無防備な背後に、セルティ兵が迫る。
「馬鹿、後ろ!!」
 アルフェスがいる位置とは反対側で、エスティが叫ぶ。いつものアルフェスなら、その警告だけで事足りた筈だ。だが、今の彼には遅すぎた。
 振り返った彼の、肩から胸にかけて、黒い軍服の兵士の剣が一薙ぎに斬り裂き――

 バキッ。

 船体が真っ二つに折れたその音に、ミルディンの悲鳴は吸い込まれた。その折れ目に、バランスを崩したアルフェスの体が、鮮血と共に、成す術なく落ちて行く。
「いやあああああ!!!」
 今度ははっきりと、逆巻く海に、彼女の絶叫がこだました。
「――くそッ!」
 毒づき、エスティがその兵士を一蹴するが、全てが遅い。二つに割れた船体は今度はゆっくりと縦向きになり、そして沈んでいく。どうにかミルディンを引き上げようとしていたリューンだったが、引き上げてもどうしようもない状況だった。それに加えて、アルフェスが落ちたことによってミルディンは酷く錯乱して、救助をさらに困難にしていた。だがそれでも、リューンは彼女の手を強く握った。落ち着かせるような言葉をかけてやれればいいのに、マインドソーサラーの力はこんなときに限って無力だ。
 そんな言葉など“ない”のだということが解り過ぎてしまうから。
 どんな言葉をかけてもなんの慰めにもならない、気休めにしかならない。大丈夫だ、なんて無責任な言葉はとても言えない。それほどに状況は絶望的であったし、何より彼自身が痛感していた。

 ――今の彼女に届くのは、きっとアルフェスの声だけだろう。今の自分を救えるのが、シェオリオしかいないように――

(……違う。今はそんなことよりも――生き延びることを考えなきゃ)
 船が大きくかしいで、遠くに行きかけた意識が返ってくる。とはいえ限界は近い。それを悟ってリューンは大きく息を吸った。違う、そう強く自分に言い聞かせて。
「しっかりして、ミラ!! もう一度彼に会いたいなら――君が生き延びなきゃ!!」
 届かないかもしれないとはもう考えなかった。力の限りの叫びの後、握り締めた手から、微だが力が伝わり、安堵に微笑む。
 だがそれは儚いほどの一瞬だった。
「ミラ! リューン!!」
 背後で声がし、気配を感じる。だが次の瞬間には、掴んだ手の感覚もエスティの気配も何もわからなくなって、ただ深く冷たい海に、ひきずりこまれていった。


 暗い。
 冷たい。
 苦しい。
 だけど、耳の音で声が響く。
 自分を呼ぶ彼女の声。

 ――わかっていた。

 精霊が騒いでいる。魔道の流れが乱れている。
 解っていた。
 これほどの広範囲に、その力を及ぼすことができる存在。
 そして、微かに伝わってくる、力を行使する者の波動。
 この中心にいるのは――

 だから、死ねない。
 例えもう、自分にできることが何もなくても。
 思い出して欲しいから。
 そしてその為に――
 もう一度彼女に、会いたい。

 だから――

(……ぼくは無様に生き続けるよ。君に会うために)


 暗い。目覚めた場所は海の底ではなかったが、厚い雲が立ち込めた空は闇夜と変わらないとさえ 彼には思えた。
「……暗い」
 呟いて、起き上がる。
 頭から爪先までびしょ濡れで、リューンは身震いした。
「海に落ちたんだっけ……」
 顔にまとわりつく髪を払いながら呟くと、後ろから聞きなれた声がかかった。
「気がついたか?」
「エス」
 友の姿に、リューンは笑みを浮かべた。
「君が助けてくれたの?」
「まあな」
 答えて彼もリューンと同じ様に髪を払うと、ほどけてからまった長い髪を、鬱陶しそうに束ね直し始めた。
「ありがとう。ぼく……泳げない以前に、水が苦手なんだ」
「へえ?」
 意外そうな声を上げる彼に、リューンは苦笑しながら遠くを見るような目をした。
「何年前になるかな。妹……シェオリオが川で溺れてさ。咄嗟に飛び込んだはいいけど、情けないことに自分も溺れちゃって、以来トラウマで……ぼくはいつもそうだ。助けたいと願っても、誰ひとりこの手に掴めない」
 自嘲のこもったリューンの言葉に、エスティは何と返していいかわからず口ごもった。何と言葉をかけていいか考えあぐねている間に、リューン本人が話題を変える。
「ああ、ごめん。今はそんなこと言ってる場合じゃないよね。そうだ、ミラやルオは? ……アルフェスは」
 だが、これにもまともな答えは返せそうになかった。力なくエスティはかぶりを振った。
「……はぐれちまった。ミラはルオが助けたのを見たが、オレもお前を連れて岸まで泳ぐだけで精一杯だったし。でも思ったより岸まで距離はなかったから、あのおっさんだったら大丈夫だろう」
「――そ……か」
 言葉を濁した彼に、リューンも掠れた声で返事を返す。確かに、ルオなら大丈夫だろうし、ミラも彼と一緒なら無事だろう。だがアルフェスは、傷の具合や出血から見てもかなり危険だろう。あの状態で海に落ちては、とても助かるとは考えにくい。だからこそ考えたくなかった。だから、エスティも彼については言及しなかったのだろう。
「……行こう、エス。ここでじっとしてても仕方ない」
「そうだな」
 応えながら、エスティは剣を抜いた。同時に声もなく彼の背後で兵が倒れる。
「セルティ兵!?」
「……囲まれたようだ」
 ひゅっ、と血を払い、剣を構えなおす。その数たるや、まるで戦場のど真ん中にいるようだ。
「変だよ……なんでこんなにセルティ兵が? こんな場所に兵を配備する必要なんてないはずだ」
「さあ……もしかしたら、この魔力の暴走と関係あるのかもな」
 魔力の流れの中心点が近いのがわかる。
 ――魔力とはこの世界においては、個人のもつ精霊を集める力のことだ。それが強いほど多くの精霊が集い、強力な魔法を放てる。そしてその際、術者の魔力は一時的に周囲に拡散する。魔力が高いほど、その力は広範囲に及び、それだけ多くの精霊を集められるというわけだ。
(これだけ強大な魔力が、海の向こうにまで及んでいる。だとしたら、その中心にいると考えられるのは――)
 気付いているのか?
 剣を振るいながら、エスティは背中合わせに戦う友に、胸の中だけで問いかけた。