2.セルティの戦う女神

「はぁーい?」
 いつもの元気な声で、シレアが応える。ミルディンにはそんな彼女の様子が痛ましく映ったが、扉の向こうの人物はそんなことを知る由もなく。彼女の返事のすぐ後に、ガチャリとドアが開いた。
「エスティさん」
 その向こうに、漆黒の髪の少年の姿を捉えて、ミルディンがティーポットに手をかける。
「今丁度お茶にしてたところなんです。エスティさんもいかがかしら?」
「ああ、お構いなく。今後の予定を言いにきただけだからさ」
 彼女に対する遠慮もあったが、女性二人と優雅にお茶など気が遠くなりそうだというのが実情だ。頭の横で軽く手を振って、エスティは単刀直入に用件を口にした。
「明日ここを発つことにしたから。シレアは残るんだろ?」
「……ん」
 少し哀しそうな瞳をし、シレアが頷く。
「そうしろよ。後はオレ達に任せな」
「うん。でも――落ち着いたらまた一緒に行くからね。もう留守番は嫌だよ」
 そう言って笑顔を作るシレアに、エスティは苦笑を返した。
「その辺の了承はリューンに取ってくれよ」
「お兄ちゃんは……何も応えてくれなかったから」
 答えるなりシレアは俯いてしまって、ミルディンは不安そうにシレアを見つめ、エスティは気まずい思いで前髪をかき上げた。そして、ちらりとミルディンの方に視線を向ける。
「王女は……例の話を」
 エスティの言いたいことを悟り、彼が言葉を最後まで言い切る前に慌ててミルディンは頷いた。恐らく、リューンがセルティの傭兵だったという話を差しているのだろう――
 昨夜、泣きはらした目をしたシレアが部屋に飛び込んできたのを思い出してミルディンは目を伏せた。泣きじゃくる彼女を宥めながら何があったのかを問うと、彼女は全てを話してくれた。そして涙の止まらない彼女を抱きしめながら、一緒に眠った。シレアの気持ちを思うと、ミルディンも胸が痛かった。

「お兄ちゃんは……お兄ちゃんじゃなかったの」

 泣きじゃくりながら、シレアは何度もそう言った。凄惨な過去の記憶に耐えられたのは、リューンが自分の命を救ってくれたことも思い出したからだ。彼への想いが、その傍にいられることが、辛い過去を受け入れ今を歩めるたったひとつの柱だった。
 だけど――彼は純粋な命の恩人ではない。自分と自分の家族を殺す為、自分の前に現れたにすぎなかったのだ。兄でも、恩人でもなかった。
「……きっとあいつは、お前に負い目を感じてるんだよ。だから……」
「そんなことッ」
 再び視線をシレアへと戻し、励ますように呟いたエスティの言葉を、ふいにシレアのいつになく強い声が遮った。
「関係ない……ッ!! 確かに、お兄ちゃんはいっぱい人を殺したかもしれない。あたしを殺しにあたしの前に現れたのよ。でも……でもッ、だからあたしは生きてる……ッ!!!」
 リューンは兄でも恩人でもない――でも結局、救われたことに変わりはないから、恨むことも忘れることもできなかった。泣き眠り、起きてからもシレアは何度も自問した。何度それに答えても、やはり兄は兄だ。想いを打ち切ることもできない。それがシレアの答だった。だから。
「何だっていい……お兄ちゃんが何者でもいいよ……。だから、このままあたしのお兄ちゃんで居て欲しい」
 ――拒絶されるくらいなら。一緒に居られないくらいなら、“兄妹”でよかった。記憶が戻ったことを言い出せなかったのもそのためだ。
 だから、スティンに来るのが怖かった。
 それでも――
 来たからには全てを受け入れる覚悟をしていた。でも、それは、こんな結果の為ではない。
「……あいつに、伝えておくよ」
 エスティが手を伸ばし、そっと髪を撫でる。
「……いつもは乱暴に叩くくせに」
 憎まれ口をききながら、だが彼の優しさが胸に染みて、またちょっとだけ涙が出た。
 

 同日、夜更け。
 闇の向こうで何かが蠢き、ラルフィリエルは神経を最高まで研ぎ澄まし、待った。
 やがて、闇夜に閃いた剣先を弾き返し、襲い来る敵を一刀の元に薙ぎ払う。
 剣の血を払い、ラルフィリエルは大きく肩で息をついた。外傷はないが、さすがに疲労は禁じ得ない。
「いつまで続くんだ、こんなこと」
 言葉に出してしまって、彼女は自分がすっかり冷静さを欠いていることを自覚した。いつもの自分なら、そんなこと絶対に口にしない。敵に聞かれでもしたら、限界が近いことを感じさせてしまう。
「……くそッ」
 そう毒づくことさえ、珍しいことだ。だが、そのことには気付かない。気付かないままに、複数の気配に対して再び剣を構えた。闇の向こうから、闇色の軍服を来た兵士達が剣を翻し向かってくる。
(……いつまででも、構わない。初めての故ある戦だ。堪能してやる)
 不敵な冷笑を浮かべる頃には、彼女も幾分か冷静さを取り戻したようだった。笑みと共に、逆巻く炎が辺りを包み込み、肌の焼ける匂いが鼻腔を突く。赤黒い焔を感情の見えない瞳に映して彼女は佇む。
(勝利で飾ってやるさ……私の最期の戦なのだから)
 無敗将軍の栄光に、未練も惜しむ心もない。だが、それでもこの戦いでその名が汚されることは彼女のプライドが許さなかった。
(私は、エインシェンティア……ラルフィリエル・E・レオナリア。禁忌の力を持つ、セルティの戦う女神だ)