5.この空の下の、兄と妹

 ――汝、力を望むか?
 問いかけに、かぶりを振る。
 力などいらなかった。
 力で守ろうとし、力で対抗しようとしても、力で押し返されるだけだった。
 だからもう、力など求めない。

 俺が欲しいのは力なんかじゃない。
 俺が欲しいのは――

 ――ならば、汝欲するものを守る為に、我が力託そう――

 そして、俺は彼女を守ったけれど――
 だけど、俺は彼女を得られない――

 ――お前は知ったのだろう。力を厭いながらも、戦い続け、そして無力故に苦しんでいる。

 ――汝、答は出たか?


 声にならない呻きが溶けていく。
 ひどく右目が疼く。


 答など、わからなかった。




 満天の星空。
 空を遮るものは何も無いし、何人たりとも空を分つことは出来ない。空は無尽蔵であり、かつ、無限に広がっている。そして、どんな人であろうと――いや、人に限らず、この星に生きる者は全て、等しくこの空の下で生を営んでいる。
「元気ないじゃないか?」
 突然に声がかかり、彼は思考を中断した。闇夜に溶ける漆黒の髪を揺らして、相棒が姿を現す。
「エスティ……」
 そのままの姿勢で、リューンは彼の名を口にした。
「こんなところにいたのか。部屋にいないから探したぞ」
 エスティがリューンの姿を見つけたこの場所は、宿の屋上だった。屋上と言っても、二階建てのこの宿ではそんなに高い場所とは言えない。それでもこの満天の星を見ていると、手が届きそうだと錯覚させる高さではある。
 暗くてよく表情は読み取れないが、リューンは少し微笑ったようだった。
「情報どころじゃなくなっちゃったね」
「まあな」
 応えながらリューンの方へと歩みよる。恐らく空を見ていたのだろう。気がつけば、いつもリューンは空を見ている。だがエスティがその訳を聞いても、いつも曖昧に笑うだけだ。
「……星を見てるのか?」
 今回もそうだろうなと思いながらの問いかけに、だがリューンは首を横に振って、思いがけず答えを返してきた。
「ぼくは別に、空とか星とかを見てるわけじゃないんだ。ただ……彼女も今、この空の下にいて、もしかしたら同じ空を見てるのかもしれないって思うと……つい、ね」
「彼女?」
 エスティが疑問の声を上げる。そこで初めてリューンはエスティへと視線を移した。そして、少しためらった後に、呟いた。
「ぼくの……妹。ぼくは今まで、彼女を探す為だけに、旅を続けてきたんだよ」
「……妹? シレアのことか?」
 彼の言葉では、シレアだとすれば辻褄が合わない。それでも他に当てはまる人物が思いつかずにエスティはそう尋ねた。やはりリューンは、首を横に振る。
「シレアは、ぼくの本当の妹じゃない」
 続いた言葉は、驚愕に値するものだった。リューンと出会ってから二年近くになるが、そのときからシレアはリューンと一緒にいた。そしてリューンは、シレアを妹だと言った。だから、二人は兄妹だとずっと思っていたし、疑う余地も理由もなかった。なのに何故、今になってそんな唐突な告白をするのか。エスティの疑問を、リューンは的確に読み取ったらしかった。
「ここは……スティンは、シレアの故郷なんだ」
 訥々とリューンが語り始める。聞きたいことは色々あったが、エスティはひとまず黙って彼の話に耳を傾けることにした。
「昼間、ルオが言ってたでしょ? 王家の血筋は皆殺されたって。……シレアはそれにあたるんだ。多分、貴族のところに嫁いだスティン王女の娘、だと思う」
 俯きながら、言葉を選ぶようにして、彼は続けた。
「……たまたま、その現場に居合わせて、助けたんだ。けど、助けることができたのはシレアだけで……家族を目の前で殺されたシレアは、何もかも失ってしまってた。言葉も、記憶も、名前も……生きる気力も、何もかも。だから、僕のマインドソーサルの力で、記憶を与えた。だから……彼女の記憶は偽物。シレアは、本当にぼくを兄だと思っている筈だよ。何の疑いもなく、ね」
 幾分か自嘲の篭った声で、リューン。
 必要なこととはいえ、シレアを騙し続けていることにはずっと罪悪感があった。失った筈の右目が疼き、髪の上からそれを押さえながら――リューンは話を続けた。
「迷ったよ。彼女をどうするか。自分のことでさえどうしていいかわからないのに、自分に他人を救うことなんかできるのかって。そもそも、何が救いになるのかって……。でも、そのときはそうするしかないって思ったんだ。だから、偽の記憶を与えた」
「……じゃあ、彼女の名前も、性格も……?」
 だが、リューンはそれはきっぱりと否定した。
「ぼくにそこまでを改変する力はないし、そんな細かい部分にまでは触れてないよ。シレアって名前も、彼女の母がそう呼び続けて息絶えたから……あっていると思う。ただ、“アレアル・リージア”は、ぼくの本当の妹の名だ。シェオリオ・アレアル・リージア……それが、ぼくの妹の名。だけど、ぼくはシレアをシェオリオの代わりにしようと思ったんじゃない……シェオリオの名をもらうことで、本当の妹だって思えるように、あえてそうしたんだ」
 言葉の後半は、独白に近かった。右目を押さえて俯いたままの彼は、苦しそうに見えた。だが、エスティがそんな彼に何か言葉をかけようと口を開きかける前に、リューンは右目から手を離すと顔をあげた。その瞳が、真っ直ぐにエスティを射抜く。
「それから幾日もしないうちに、君に出会ったんだ。……エス」
 そこから先は、エスティも知っていた。数々の修羅場を共に潜り抜け、共にセルティと戦ってきた。それまで独りで旅を続けてきた エスティにとって、リューンは初めて信頼した仲間であり、心を許した友であった。その妹だというシレアは自分にとっての妹のように思えたし、良いムードメーカーであり、しょっちゅう口げんかもしたが、お互いにそれを楽しんでいた。
(でもそれって、シレアがリューンの本当の妹じゃないからって変わることじゃないよな)
 リューンの話に驚きはしたが、エスティにとってはそれだけのことだ。だが、リューンにとっては相当の重荷だろう。だけど彼はそれを打ち明けることなく兄と偽り続けてきた。
「……お前はいっつもそうだな。なんでも1人で抱え込んで」
「それはエスの方でしょ? それに、ぼくは別に、辛いと感じたことはないよ。独りじゃないってだけで、こんなにも救われるなんて思わなかった。ぼくはシレアを助けたつもりだったけど、助けられたのはぼくの方だったんだ。エス……君にもね」
 リューンが微笑む。言葉とは裏腹に、どこか寂しげな笑みは、彼が心を許しきっていないことを暗に示していた。いつもどこか、一歩引いたような彼の態度に、違和感を感じたことは今までにもある。だが、それについて詮索しようと思ったことも無かった。
 だから、今も、聞かない。
 追及したいことはそれ以外にも多々あったが、リューンがそれ以上話そうとしなかったから、聞かなかった。それに恐らく、聞いてもリューンは答えてはくれないだろう。だがそれは自分も同じだ。何もかもをリューンに話しているわけでもないし、何もかもを打ち明けなければ友にはなれないなどとは思っていない。
 それでも、一緒にいれば心強く、共にする時間は楽しい。
 それだけで、リューンを友と呼ぶには十分だった。だから、エスティは敢えて話題を変えた。
「……これから、どうする? お前の言うとおり、情報どころじゃなくなっちまったけど」
「そうだね……」
 リューンも、前の話やその空気をひきずることは無かった。やはり、さっきの言葉で話は終わりだったのだろう。
「本当は止めるべきなんだろうね。あまりに無謀すぎる。セルティに皆殺しにされるだけだ。民をも失い、スティンは本当の滅びを迎えることになる」
 惨い内容をさらりと述べる。だが、本当はその結果を誰もがわかってはいるのだ。
 反抗して殺された者たちを見てきたスティンの民の方が、その事実も痛みもずっとずっとよく知っている筈だった。――それでも彼らは決断した。
「リューン。オレは、オレの力で誰かを守れると思ったし、救えると思った。だけど、レグラスの戦いで、それが思いあがりだってことを知ったよ……。人の命運を背負える程の力なんかオレにはない。物理的にも、精神的にも」
 見るともなしに空を見上げながら、エスティがそう零す。
「無謀だ。だけど、オレ達に止める権利はないんだよな……」
「でも、できることはある」
 リューンが言葉を挟み、エスティは彼を見た。
「ああ。そうだな」
 深く、そして力強くエスティが頷く。  無力を嘆くことはない。何を成せるかではなく、何を成すかにこそ、意味があるから。

 大きな力ではない――だが、
 何かを成すことはできる力だ。その為に得た、力だ――

 エスティは、この一ヶ月の休息で取り戻した魔力が自分の中で疼くのを感じていた。