13.自由都市群の父と娘

 懐かしい言葉が、耳に響いた。
 なんという言葉なのか解らなかったが。
 ただ懐かしい、名前のようなそれが――彼の声だということは、わかった。

物質消去(ライフ・デリート)!!』

『……ッ、おおおおッ!?』
 黒い霧に包まれて“セレシア”が慄く。
 ラルフィリエルも又、苦痛に呻いた。あのときと同じ様に力が入らない。命が蝕まれ、自分の全てを消し去ろうとしている――
 だが、今はそれに構っている暇はなかった。まとわりつく虚無の手を咄嗟に振り払って、彼女は叫んだ。
「リューンッ!!」
 自分を庇って、前に立ちはだかった少年の名。
“セレシア”の力の結晶である光の塊に貫かれてなお、彼はそこに立っていた。

精神支配(ソウル・コマンド)!!』

 霞む視界の中で、手を翳し、リューンが力を解放する。秀麗な顔が苦痛に歪み、汗が幾筋も頬を伝う。だが、この機を逃すわけにはいかない。
『……ッ! 私を……支配するかッ』
 存在を消されかけ、精神を支配されようとしているにも関わらず、“セレシア”は顔を上げると凄まじい形相でリューンを睨みつけた。リューンの体を貫いている黒い光が、さらに黒き輝きを増してリューンの体に食い込む。
「……くッ……うああ!」
 たまらずに声をあげ、リューンがその場に倒れこむ。血飛沫が辺りを染めた。
「やめろッ!!」
 叫び、ラルフィリエルが翔ぶ。一瞬で“セレシア”まで距離を詰めると、ラルフィリエルは彼女の喉元に剣を突きつけた。
『…………この娘を、殺すか……?』
 さすがに苦痛の色は隠せなかったが、それでも“セレシア”はなおも薄ら笑いを浮かべていた。問われ、ラルフィリエルの剣先が震える。無力化している今なら、容易に“セレシア”を殺すことができるだろう。“(よりしろ)”が命を失ってエインシェンティアが彼女から分離すれば、自分の力で無理にでもこのエインシェンティアを取り込み、制御して支配下におくことはできる。だが――
「……セレシアを、解放するんだ。そして私の中に来い」
『やはり、この娘を殺せないのだな。愚かなものよ……。フフ、確かに、貴様を“(よりしろ)”とすれば……私はさらなる力を得られるだろう。だが……貴様は私に自由をくれるか……?』
 ラルフィリエルの言葉に、“セレシア”は問いを返した。
『私が望むのは私が蹂躙する世界。貴様は私にそれを見せてくれるか? ……この娘は、見せてくれる。父が、そう望むからだ』
 ラルフィリエルの剣を白く細いセレシアの手が掴む。その剣を通して、“セレシア”の力が伝わる。ただ掴まれているだけなのに、剣を退こうとしてもびくともしない。
『その父を、己で刺しておきながら、な。なんと愚かで滑稽な操り人形か!!』
「……ッッ」
 急速な力の集束に、反射的にラルフィリエルは剣を離し、飛び退った。それを追って――否、それごと全てを吹き飛ばさんとする、膨大な力が解放される。凄まじい閃光が辺りを埋める。
「うあああッ!」
 成す統べなく、衝撃をまともに受けてラルフィリエルが弾き飛ばされる。消耗しているエスティとリューンもまた、声もなくその力に吹き飛ばされた。それだけにとどまらない。離れた位置にいたシレアにまで力は及び、彼女もまた成すすべなく地面を転がった。
「くッ」
 即座に体勢を立て直し、ラルフィリエルは再び“セレシア”へと向かった。少し遅れて、その後をエスティとリューンが追う。だがエスティはデリート・スペルの行使によって疲弊し、リューンも体を貫いていた光こそ消えたが、その傷は消えることなく確実に血液と意識を奪っている現状だ。シレアは起き上がることさえままならず、その彼女を助け起こしたルオが最も余力を残してはいたが、それでも“セレシア”の行使する力の前には太刀打ちできないままでいた。このままでは、街どころか自分の命を護ることさえも難しい。
 誰もが焦燥を感じ始めた、そのとき。
「お姉ちゃん!!!」
 小さな叫びが起こる。
 ほどけかかったブラウンのポニーテールを振り乱し、幼い少女が“セレシア”に駆け寄る。それは、誰も止める間のない一瞬のうちの出来事だった。
「お姉ちゃん……」
 セララの叫びは空しく虚空に溶け、血染めのワンピースの“セレシア”は、口元を笑みにすると、セララに向けて手をかざした。
「セ…………!」
「セララ!!!」
 シレアが声にならない叫びを漏らす前に、その名が叫ばれる。冷たさのないテノールの声が名を呼んで、エルザスがその小さな体をすっぽりと包み込むように抱きかかえていた。そのすぐ間近で、“セレシア”の手に光の刃が生まれ、エルザスとセララに吸い込まれるように近づく。シレアが目を閉じ、エスティとリューンが身を固くし、ラルフィリエルが飛び出しかけ、だがその刹那ふと光は掻き消えた。 「……もうやめて。私を……消して」
 誰も何も声を発せぬ間に、セレシアの小さな声が“セレシア”の口から漏れた。まさにその瞬間――消え去っていたデリートスペルの黒い霧が、再び巻き起こった。
『な……に……!』
 エスティ達が呆然と見守る中、虚無の霧が“セレシア”を消し去ろうと彼女を蝕む。己が消去される恐怖に、“セレシア”は再び慄くことになった。自分が支配したはずのものが、滅びを受け入れて虚無の霧を呼び込もうとしている。
『やめろ……!』
 慌てて“セレシア”が支配を強めようとする。だが、

精神……支配(ソウルコマンド)!!』

 地面に膝を付きながらも、リューンが渾身の力で放った精神魔法は、“セレシア”の畏怖と焦りを確実に突いた。“(よりしろ)”の反発と精神支配とで、“セレシア”が膝を折る。虚無の霧は益々威力を増し、“セレシア”にまとわり付いてその体を覆いつくしていく。
『……クッ!』
 “セレシア”が呪詛の呻きを吐き捨てる。同時に、デリート・スペルの具現を裂いて、凄まじい黒い閃光が彼女を包み込んだ。その激しい光に誰もが一瞬視界を奪われ、そしてその光が収まったとき、そこにあったものは――
 セララに折り重なるように倒れたセレシア、巨大な獅子の姿をした黒い獣――おそらく彼女から分離したエインシェンティアの姿だろう――、そしてそれが、セレシアへと襲い掛かる様。

 そして、それを阻もうとして獅子の爪を深くその身に食い込ませたエルザスの姿だった。