10.狂乱と壊された平穏

 その殺気の中心に居る者を目にし、エスティは絶句した。
「セレシア!!」
「知っているのか」
 ラルフィリエルの問いに、エスティが頷く。
「なんで、彼女が……」
「古代秘宝を……お前がエインシェンティアと呼ぶそれを、目覚めさせたのは彼女だ」
「なんだって!?」
 それは確かに、先日会話を交わし、茶を馳走になったブラウンの髪の女性だった。だが、そこに髪と同じ色の瞳はない。無残に抉り取られ、白いワンピースは血で染まっている。知人の凄惨な姿に、エスティは思わず口元を押さえながら呻いた。
「……ッ。どういうことだ。只の人間が召喚の能力を持つわけでなく、エインシェンティアの≪よりしろ≫になんかなっても、制御できるはずがない! 暴発するぞ!!」
「だからあの娘は両眼を捧げたのだ」
 渋面になって、ラルフィリエルが淡々とエスティが今しがた口にした疑問に答える。
「髪や目には魔力が宿りやすい。あの娘の両目には、古代の力に似た魔力があったのだろう。あの娘の両目から力を得て、ヤツは自分で自分を制御しているんだ……極めて不安定ではあるが」
「……目、だと。そうやってエインシェンティアを取り込む方法があったのか」
「ああ。だが……あの娘は逆に古代秘宝に取り込まれたようだな。瞳に力が宿っていただけで、あの娘自体は力を持たない。そして、何よりエインシェンティアの意思が、制御されることを望んでいないだろう」
 そんな会話を交わすうちに、彼女はこちらへ気付いて近づいてきた。にぃ、と唇が弧を描き、妖艶な笑みを浮かべる。
『まだ生きていたのか。死に損ないめ』
 彼女から紡がれる声は、だが彼女のものではなくなっていた。
「……セレシア?」
「違う。もう乗っ取られている」
 名を呼んだエスティに、ラルフィリエルは短く吐き捨てた。そして、剣を構える。
 嘲笑うセレシアの手に、剣と思しき発光体が現れる。視界に止めるのが困難なスピードで、彼女はそれを繰り出してきた。だが、いくら速いとはいえ、そんな単調な攻撃に怯むラルフィリエルではない。難なく剣を受け止めて弾くと、ラルフィリエルは虚空を一瞥した。それだけで突然に業火が巻き起こり、セレシアへと襲いかかる。
『――!?』
 セレシアは咄嗟に身を翻してそれを避けたが、肌の焼ける匂いが鼻腔をついた。肩で息を付きながら、セレシアがこちらを睨んでくる。
『現代人は、スペルがないと魔法を使えないのではなかったのか?!』
 セレシアの顔には驚愕の色が浮かんでいる。
「……その娘の知識を読んだのか」
 セレシアの驚愕と焦燥を見て、ラルフィリエルは口の中でひとりごちた。好都合だった。わざわざ理由を説明してやる義理もない。セレシアの隙を逃さず、ラルフィリエルは追撃を続けた。
『くッ』
 セレシアが飛び退る。ラルフィリエルの追随を裂け、大破されたバーミントン邸に着地する。
「エスティ!」
 それを追ってエスティとラルフィリエルの二人が着地すると、すぐにリューンが駆け寄ってきた。心配するようにエスティの名を叫んだリューンは、だが、
「……カオスロード」
 カオスロードの姿を見止めて、足を止める。前のように様子がおかしくなるのではとエスティはリューンの表情を盗み見たが、少なくとも以前のように明確な驚愕や躊躇はなく、とりあえずほっとする。
「ほお、お前があのカオスロードか? セルティ軍は俺が蹴散らして撤退していっちまったぜ」
 緊迫した状況もエスティの危惧も割って、場違いなほど明るい声が響いたのはそんなときだった。立ち止まったリューンを追い越して、ルオがラルフィリエルのすぐ傍まで歩み寄る。ラルフィリエルは咄嗟に身構えたが、あまりにルオの動作が無防備なので、剣を持つ手は動かずに止まった。
 カオスロードを前にして怒りと憎しみにかられて剣を抜かない人種も珍しいと、瞬間エスティは訝った。恐らく、腑におちない表情をしている彼女も同じようなことを考えていると思われた。よほどルオがさばさばした性格なのか、それとも単にカオスロードが仇という訳でもないのか――いずれにしてもこの状況でそれを詮索している場合ではないが。
「……あれは、セレシアさん?」
 歩き出したリューンに問われ、エスティは我に返った。ああ、と短く答え、ついでに小さく肩をすくめて付け加える。
「両目を捧げて≪(よりしろ)≫になったが逆に支配されたんだとさ」
 再びリューンが足を止める。今度こそ、彼の顔にはっきりと動揺が浮かんだのをエスティは見た。
 が、それこそ、詮索している場合ではない。
『虫ケラどもが、群れはじめた』
 にたりと笑ったセレシアの割れた声が響き、エスティを始め各々が彼女を振り返って身構える。その先でセレシアが手を振りかざし、それに合わせて虚空に幾つもの剣状の光が浮かんだ。そしてセレシアがかざした手を降ろすと、それを合図に光がこちらに向かって降り注いでくる。
 エスティ達がそれを回避し、臨戦態勢を取ったそのとき――

「……は、ははははは!!!」

 その合間を縫って、全く場にそぐわない笑い声が起こった。聞き覚えのある声に、剣を構えながらエスティが顔をしかめる。嘲笑の主は、遅れて走ってきたシレアの後にいる市長だった。
「素晴らしい力だ!! これが、古代の……エインシェンティアの力!」
 何かを抱きとめるように両手を広げ、感極まったようにエルザスが叫ぶ。彼はシレアを押しのけると、手を広げたまま彼はセレシアに歩み寄った。
「よくやった、セレシア。これで、私は強大な力を手にした。この自由都市を支配し、王となり……ランドエバーとスティンを我が物にするのも、セルティを潰すことも夢ではなくなった!!!」
 叫びながら、エルザスは一歩、また一歩と彼女へと近づいていく。それに合わせて視線を動かしながら、エスティはようやく事の顛末を理解した。
「てめえが、セレシアにエインシェンティアを目覚めさせるよう仕向けたんだな……!?」
 汚いものを見るかのようにエスティは顔を歪めたが、エルザスは一瞥もくれない。そもそもその言葉自体彼には聞こえていないようだった。
「さあ、我が娘よ!! 私と共に世界を蹂躙し……」
 唐突に、耳障りなエルザスの声が止まる。
 今しがたエスティ達を襲ったのと同じ、剣を模った黒い光が、一瞬のうちに――市長を貫いていた。
 それはほぼ前触れもなく音もなく、誰も何も動けないでいるうちに。
「セ……レシ?」
『眠れ。愚かで汚い虫ケラ』
 エルザスがその場に崩れ落ちる。
 彼よりももっと耳触りな、セレシアの――否、セレシアの姿をしたエインシェンティアの、笑い声が闇空に広がった。
「き……さまァ!!!」
 エスティが凄まじい形相で、エインシェンティアを睨みつける。
 黒い光の剣を自らの剣で叩き落し、激情にかられて彼はスペルを詠んだ。
『“我が御名において命ず! 冥界の……”』
「よせ!」
 だがそのスペルはラルフィリエルの一喝に遮られた。
「お前の力では無理だ! 消耗し、戦えなくなるだけだ」
「……くッ!!」
 無視するには彼女の忠告はあまりに正しく、エスティは唇を噛んだ。
「あいつは、セレシアの体で市長を刺した! あんな下衆でもヤツは、エルザスはセレシアの父親なのに!!」
 セレシアののんびりした笑顔が瞼の裏に浮かぶ。
 エルザスは下衆だった。自業自得なのかもしれない。だがセレシアは、普通の生活を営み、普通の幸せを持った、普通の娘だった。なのにどうして彼女が、己の父に刃を立てる、こんな愚かしく惨たらしいことになったのか。

 そもそも、こんなもの――エインシェテンィアさえなければ 市長も心を狂わすことなどなかっただろうと、エスティは益々強く唇を噛みしめる。
 エインシェンティアさえなければ――もしくは、もっと早くにそれを自分が消去していれば、ただ普通の家庭がこの街にあっただけなのに。

 噛んだ唇から血が流れた。
 自分の力の無さが悔しかった。