8.涙

 薄暗い通路には風も無いのに、時々銀の髪が揺れた。
 「テレポート・スペル……古代の遺物か」
 その唇から美しい声が漏れる。
 「やっかいな物を遺したものだ」
 また髪が揺れる。転送呪が発動したのだ。意図するところにいつでもその効果を及ぼすという、古代の恐るべき力と技術で。
 それが、何箇所にも渡って続いている。あの書斎から――。
 一定の速さで――急ぎもせず、躊躇うこともなく――彼女は、ラルフィリエルは歩いていた。
 だが、ふとその足が止まる。
 『気配』を感じた。恐ろしい威圧感を――
 ラルフィリエルは、剣の柄を握り締めた。


 バーミントン邸は、狭くはなかったが迷うほど広くもない。一度しか案内されたことはないが、それで十分だった。
 エルザスから、エインシェンティアの在り処を聞き出したエスティは、嫌な予感に付き動かされその邸の中を全力疾走していた。
 彼から問い出させたのは、その在り処のみ――彼が何を企んでいるかは未だ知れない。
 ただ、ひた走る。
 バン、と荒い音を立てて、エスティは書斎の扉を開け放った。冷えた空気と膨大な本が、彼を迎える。
「……古代の遺物だあ? まだそんなものが残っていたのか……しかも、一個人の家に!」
 予想してなかったこととはいえ、気付かなかった自分に深い苛立ちを覚え、彼は舌打ちした。先ほど詰問したときの、市長の言葉が頭に去来する。
 誰も知らない、忘れられた空間に、“それ”はある、と――胸倉をつかまれて尚、勘に触る笑みを浮かべながら、得意げに彼は語った。何百年も前、ここは何人も立ち入らぬ聖域であった、と。
 百五十年前、ランドエバーから独立したときに、彼の祖先が祠を取り壊して、この邸を建てたのだ。この場所に、エインシェンティアへの道があるとも知らずに。
 十数年前、エインシェンティアが表舞台に姿を現した頃、古代文明について学んでいたエルザスもまたこの『道』の存在に気付き、エインシェンティアを見つけたのだ。
 エスティは、なんとなく彼の企みがわかる気がした。この強大な力を、あの傲慢な人間が手にしたとき――何を思うのか。
 再び、舌打ちすると、エスティは焦燥をおさえて目を閉じた。静かに、魔道の流れを感知する。
(――視えた)
 瞳を開くと、エスティは迷わず本棚の間を縫って走った。そして、一番奥の本棚の前に立つ。
「『映像(ヴィジョン)』か!!」
 何の変哲もないその場所に、魔の力が凝縮している。
 それは、魔法の力でできた、高性能な鏡。だが、それは幻であり、ただの映像。人の目を欺くには十分な代物だが、魔法に精通していれば現代人でも解くことは可能だろう。エスティにとってはさらに造作もないことで、彼が静かに魔力を放出しただけで映像は消えた。
「……?」
 完全に映像が消え、小さな空間がそこに現れる。だが、それよりも、鼻をつく血の匂いに彼は眉を寄せた。
 中に踏み入る。正方形の部屋の真ん中に、蒼い球体がぽっかりと浮かんでいる――恐らくは、それに触れることでテレポート・スペルか何かが発動するのであろう。だが、彼の注意をひいたのは、そんなものではなかった。
 その向こうに、おびただしい血を流して銀髪の少女が倒れている。
 エスティは息を呑むと、気配を消して彼女に歩み寄った。剣は既に抜き放ち、いつでも応戦できる体勢を取りながら、ラルフィリエルの側にかがむ。
 出血は、主に頭部からがひどかった。頭に一撃を受け、出血により気を失ったのだろう。
(……今なら、殺せる)
 誰が、何がこの無敗将軍をこんな姿にできたのか――それよりも、エスティには憎しみが先に立った。
(オレの、全てを奪った……)
 家族も、友人も、故郷も。
 故郷はもともと名もない小さな村だったが、セルティ帝国によって存在すらも失われた。
 旅の空だったエスティがその報せを聞いて村に戻ったときには、既に跡形もなく何もかもが吹き飛んだ後だった。死体すら、なかった。
 初めから、そこには何もなかったかのように、存在した証さえも、奪われた。
 それが、カオスロードが引き起こしたエインシェンティアの暴発によるものだと知ったのは、それから暫く後のことだった。
「…………ッ!!」
 ラルフィリエルの首筋に、剣をあてがう。如何に彼女が強大な力を持っていたとしても、首をおとしてしまえば関係ないだろう。
(殺す。仇だ――、殺せる)
 だが、思いに反して手は震えた。殺したい筈なのに。殺しくて仕方が無い筈なのに。
 無防備に倒れている彼女は一層幼く彼の目には映った。

 泣き出しそうな彼女の顔が、頭から離れない。

「――殺さないのか」
 目を閉じたままの彼女の唇が言葉を紡ぎ、エスティの手がびくりと一際大きく震えた。
「何故? 今なら私は無力だ」
 紫水晶の瞳がうっすらと開く。だが起き上がれる力はないようだ。
「……寝首を掻くような真似をしたくないだけだ」
 自分に聞かせるように言い捨て、彼はラルフィリエルの首から剣をはずした。
「それとも、殺して欲しかったか?」
「……いや」
 ラルフィリエルはエスティから目を逸らすと、どこか遠くを見つめた。
「私は……死ぬわけにはいかない」
 その言葉に、エスティは深紅の目を見開くと、剣を握る手に力を込めた。
「はッ。人の命を平気で奪いながら、将軍様は自分の命が惜しいのか!」
 侮蔑と憤怒のこもった彼の言葉に――ラルフィリエルは飛び起きると、物凄い目で彼を睨んだ。黒い軍服なので気付かなかったが出血は胸部にもあり、床と長い髪を赤く染め抜いている。口からも血が滴ったが、構わずに彼女は呻いた。
「平気で――か。貴様は……平気で人を殺せるか? 人の命を奪いながら、平然と生きていられると思うのか?」
 彼女が珍しく激情のようなものを浮かべたことよりも、その言葉よりも、何よりも。
 エスティは、少女の瞳に浮かんだものを、信じられない思いで眺めていた。

 血で汚れた床に、少女の瞳から流れ落ちた涙が、おちて弾けた――。

「……そうでないと、言うなら……」
 放心したように彼女を見つめて、エスティは呟いた。
 全身の力が抜け、剣が重い音を立て、床に落ちる。
 だが彼はそれにすら気付かなかった。
「何故……お前は戦うんだ……ラルフィリエル」