15.最後の戦 3

 歪んだ空間が、金色の光に吸い込まれていく。
「……ミラ!!」
 振り返ると、あの黄金の神獣の姿がそこにあり、そしてそれを具現する少女がいた。それを視界に入れると同時に、張っていたシールドが強化されて攻撃が緩まる。安堵で思わず態勢を崩しかけたエスティだったが、その体は地面に着くことはなく――、自分を支えた相棒の姿に、エスティは状況も忘れて笑みを浮かべた。
「リューン……」
「ボロボロじゃない。カッコ悪い」
 視線を向けると、彼もそう茶化して笑った。うるせ、と突っぱねるが、仲間達が来てくれたことの心強さに、胸には温かいものが広がっていた。だが、
「大丈夫? ミラちゃん」
 深刻なイリュアの声が聞こえてすぐに真顔に戻る。
 もう一度ミルディンの方を窺うと、イリュアの問いにうなずきはしたのだが、それ以上の気力はないようだった。セルリアンブルーの瞳は霞み、フェア・ブロンドは汗でべっとりと額に張り付いている。ようやく戻っていた顔色も、既に血の気が失われていて蒼白だ。
 考えてみれば、“道”を作るだけであれだけの消耗だったのだ。今直にガルヴァリエルと相対し、その空間を打ち破るために具現を続けている彼女に、一体どれだけの負担がかかっているかを考えれば時間はそんなに残されていないことはエスティにも解った。
 だが、そんな僅かな時間の干渉さえ、神の逆鱗に触れるのには充分だった。
「また、貴様か! 私の空間を壊すのは!」
 ミルディンへと迫る威圧に、誰よりも早くイリュアが対応する。ロッドをかかげてミルディンの前に立ちはだかった彼女へと黒い光が集束し、そして弾けて四散した。
「もういいでしょう、ガルヴァリエル……! 神を陥れた人々はもう滅んだ。あの時代はもう滅びたのよ! 望むなら私も消えるわ。それで貴方の復讐は終わりの筈!!」
「否!!」
 悲痛なイリュアの叫びに、間髪いれずガルヴァリエルの声が返ってくる。
「我が復讐は終わらぬ!!」
 金の光に、空間の彼方からガルヴァリエルの姿が照らし出される。その憤怒の形相に誰もがその場に凍りついた。
「全て殺してやる。この世界に生きる者、全ての血で以ってラルフィの恨みを晴らすのだ。その血を捧げれば、きっと帰ってくる――そうだろう? ラルフィ」
 ガルヴァリエルが、ゆっくりと歩き出す。その瞳には、同じ瞳の少女だけが写っている。
 その瞳を見つめ返し、ラルフィリエルはただ立ち尽くしていた。こちらに駆け寄ろうとしたエスティとリューンが、皇帝の力に跳ね飛ばされるのを見ても、動けなかった。
 近づいてくるその気配に体が激しく震える。だがそれは、恐怖の所為ではなかった。

 声が、聞こえたから。

 恐ろしく整った美貌。艶やかに輝く長い銀髪。妖しく煌く紫水晶。その存在を限りなく近くに感じながら、ラルフィリエルは唇を震わせた。
「――大事なものを護る為に、愚かにも人は相争う。それを愚かだと嗤いながら、貴方も同じ。愚かしい程に愛する者の痛みを他の血で癒そうとしているだけ。そうして貴方は、大事な人の痛みまで忘れてゆくの?」
 無垢に澄んだ瞳とその声に、動きを止めて彼女を見たのは、エスティやリューンだけではない。
 シレアもミルディンも、イリュアも――そしてガルヴァリエルさえも。
「何故、背を向けるの? 何故、この声を聞かないの? “私”は、ここにいるのに」
「……黙れ……ッ!!」
 冷笑でもなければ憤怒でもないそのガルヴァリエルの表情に――
 咄嗟にリューンは手を掲げた。

『“精神支配(ソウル・コマンド)ッ”!!』

 彼から迸る光は、こともなげにガルヴァリエルの動きを縛った。それを成したリューン本人ですら驚くほどに、あっけなく。
 それは、千載一遇の――最初で、そして恐らく最後の好機だった。これを逃せば次はもう、ない。それを悟ってエスティは走り出すと、剣を掲げて叫んだ。

『“契約により、我が御名において命ず! 封印解除(シーリング・アン・ロック)!!”』

 エスティがスペルを終えると、音もなく掲げた剣の刀身が砕けた。同時に巻き起こった虚無の霧がその場に集って剣と成す。
 それこそが、ただひとつのエスティの勝算だった。
 本当に受け継いだのは”消去呪(デリートスペル)”ではない。デリートシステムとはひとえにこの剣を差した。

 この全てを無に還す、滅びのエインシェンティアを。

 その虚無の剣を手にして、エスティはガルヴァリエルと真正面から対峙した。
 ――目の前の美しい青年はこの世界の神だという。
 彼の半身は、人に貶められてその力を奪われた。それを取り戻す為、神は復讐の神となった。
 ――彼は言った。人にとって不幸だったのは、神が一人ではなかったことだと。ならば、神にとって不幸なのは、神が人の心を持っていたことだろう。そして、限りなく人に近かったということだろう。そんなことを思いながらもそれは胸の中だけに落として、エスティは違う言葉を口にした。
「この力はお前を滅ぼす。古代人が自らの罪を悔いながら、それでも人の世を護る為遺したありったけの力と知識だ。そしてオレがそれを完成させた。この剣は、触れた全ての“存在”を無に帰す。だが所詮人が生み出した力にすぎない――それが神に届くか、それがこの戦の最後の賭けだがな」
 剣を突きつけられて、初めて――ガルヴァリエルが一歩後退さる。さすがに、この剣の力は無視できないのだろう。だがそれでも、彼の顔から余裕が消えることはなかった。
「……ふ。茶番を締めくくるには相応しい賭けだな。人の分際で、神をも脅かす力を極めたことは賞賛しよう。だが、エスティ・フィスト。この賭けのリスクを貴様は理解しているか」
 冷たく吐き捨て、ガルヴァリエルが目を細める。途端に刀身と化した虚無の霧は膨張して、ブレを生じさせた。
「くッ……!」
 エスティが喘ぎ、ガルヴァリエルは冷笑した。
「人の身にその知識は制御が難しかろう。だから忠告しよう。今すぐその刃を消すことだ、デリートシステムを継ぐ者。ひとつ間違えば、今この瞬間にもその剣はこの場に在るもの全てを消し去る。――私は、ラルフィリエルを失いたくないのだよ」
 安定しない力に、エスティはそれ以上踏み出せない。逆に、ガルヴァリエルには余裕が溢れていた。
 この全てを無に帰す虚無の刃は、力を分解して霧散させるデリートスペルを昇華し、エインシェンティアとして物質的に具現を成したものだ。この力でガルヴァリエルの存在を消そうとしたときに発動する虚無の霧は、この辺り一体のエインシェンティアを……もしかしたらそうでないものまで、全てを消し去るだろう。
 その高すぎるリスクに、エスティは最後の好機に踏み出せないままでいた。その間にも、ガルヴァリエルはデリートシステムに対抗できるだけの知識を引き出して理解し、その力を消し去ろうとする。そうして、ゆっくりと彼は手を掲げた。

 だが、その動きは唐突に止まった。それと同時に、だが虚無の霧も消え失せる。
 時が止まったかのようなその瞬間、無音の世界で、銀色の風だけが全てに逆らって走り抜ける。

「……何を」
 胸に突き立った剣と、シルバーブロンドの少女を、ガルヴァリエルは交互に見た。
「人の武器など、私には届かぬ」
 信じられないように吐いた言葉と裏腹に、ラルフィリエルの剣は、吸い込まれるようにガルヴァリエルの胸を貫いた。
「……ラルフィリエル?」
「兄上。私は、確かに、恨んだかもしれないし、憎んだかもしれない。復讐を望んだかもしれない。けれど、この娘の心に触れて、――この娘を取り巻く人の心に触れて、気付いた……」
 憂いに満ちたその表情が見えたのは、彼女が見つめる先にいる彼だけ。その憂いは、だが一瞬後に綺麗に晴れて、美しい微笑みへと変わる。

「私はそれでも、人が好きだ」

 歌うような声を落とした彼女に、ガルヴァリエルは震えながらその頬に触れた。
「ラルフィリエル――ラルフィリエルなのだな? 還って来たのだな。ラルフィリエル――」
 ラルフィリエルの囁きが、彼に届いたのかどうかはわからない。だが、彼にははじめから、この狂おしいまでに想い、護ろうとしたものの自分への仕打ちを問う様な仕草はひとつもなかった。
 純粋に喜びを讃えた瞳と、優しく笑う唇と、そしてそっと愛しいものを抱きしめる姿は、エスティの目に神々しく映った。

 この世界に神がいるなら、きっとそれは彼だ。

 乾いた音を立ててエスティが剣を取り落としたとき、
 拡散する凄まじい力と閃光の洪水に、彼の意識はそこで途絶えた。