11.神の居城

『“封印解除(シーリング・アン・ロック)”!!』

 古代語と思しきスペルが途絶え、イリュアの透明な、毅然とした声が具現を促すそれを詠みあげるまでに、思った程時間はかからなかった。
 パン、と頭の中で何かが弾けるような感覚が駆け抜け――
「きゃぁッ」  唐突に変容したのは景色だけではなく、五感全てに信用がなくなる。それはなんとも奇妙な感覚だった。上も下もなく、視界が歪む。
 バランスを崩したシレアをリューンが支えようとしたのが見えた瞬間、エスティの視界からは彼らも、イリュアもミルディンも、全てが消えた。
 何も見えず、何もない。
 全てのものが在り、そして何も存在しない。強いて言うならそんな感覚に、叫べど自分の声も耳に届かず――エスティは焦燥した。だが、じきそんな感覚すら曖昧になる。

『――皆! これがヤツの、“神”の空間!! 呑まれちゃダメ!!』

 自分の意識すら曖昧に濁ってゆくのを遠くで何かが裂いた気がする。
(イリュア……?)
 思考すら奪われてゆく中、どうやって自分を保てばいいのか、それを思考することすらも許されずだけど放棄するわけにもいかない。イリュアらしき声はすぐに遠ざかってしまう。だが、それよりもひときわ激しい声が、稲妻のようにはっきりと、脳裏を駆け抜けた。

『“我が御名において! ここに道を拓かん!! 封印解除(シーリング・アン・ロック)”!!』

「――ミラ!?」
 その瞬間、その声が誰のものかはっきりと解るほどに頭脳は思考を始め、そして声帯が震えたことも実感できる。視界は開くが、まだ平衡感覚は安定しない。

『“時空の扉より目覚めて来たれ! 神獣召喚!!”』

 瞬間全てが金に塗り替えられる。
 だがすぐに、それがミルディンを核に金色の光が迸ったのだと解することができた。その頃にはもう、他の面々の姿も見えている。
 足の裏に確かな感触を覚え、立っていることを自覚できて足元を見ると、一筋の黄金の道がリューンやシレア、ラルフィリエル、そしてイリュアを乗せて奔っていた。顔を上げると、三対の金の翼と、輝く金色の体を持つ名も知らぬ獣が、ミルディンをすっぽりと包み込んで浮いている。
「これは――ケイパポウの本当の姿だわ」
 放心したように呟くイリュアに、エスティはようやくそれがケイパポウであることに気付いた。誰もが息を飲んでミルディンとケイパポウを見守る中、ミルディンは伏せていた青の瞳をゆっくりと開き――そしてそれにつれて、やはりゆっくりと――彼女自身も、黄金の道に降り立つ。
 だがその爪先が“道”にふれた瞬間、ミルディンはそのままがくりと膝をついた。
「ミラ!」
 シレアが駆け寄り、彼女の体を支えたその直後。
 唐突に溢れんばかりに迸っていた光は消え失せ、ケイパポウの姿も消える。――いや正確には、あの元の毛玉に戻ってぽとりと下に落ちただけだが。
「大丈夫!?」
 ミルディンは顔を上げると、シレアを安心させようと笑みを見せた。
「大丈夫……ちょっと疲れただけ」
 だがその額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「ケパちゃんにかけられていたガルヴァリエルの封印を解いて、具現させたんだもの。それに、この空間を安定させて“道”まで示した。力を使いすぎたのよ……」
 自らも憔悴しながらも、イリュアがミルディンを気遣う。
「すごいわ、ミラちゃん」
「ううん……わたしも、よくわからなくなってたし……ただ、ケパちゃんがスペルをくれて、気がついたらこうなっていただけ……」
「貴女の力よ」
 首を振るミルディンに、力強くイリュアは応えた。
「そうだよ、ミラ……すごいよ! ありがとう!!」
 素直に賛辞を述べるシレアに、ミルディンが戸惑いながらも照れたように小さく笑う。
「……良かった。役に立てて」
 呟き、だが彼女はすぐに表情を引き締めた。
「わたしは、大丈夫です。少し休めば回復するから……だから、皆は先に行って。すぐに追いつくから」
 少しでも早くガルヴァリエルを倒さねば、戦場の戦士達はそれだけ危機にさらされ、それだけ命は失われる。それを思ってミルディンは固い声を上げた。言われるまでもなく焦る気持ちは誰しも同じだったのだが、しかし――
「ミラを一人残していく訳にいかないよ」
 リューンが上げた言葉にもまた、誰しもが同感だった。それでも気丈にもミルディンはそれを退ける。
「ラトがいるから、大丈夫です。だから、急いでください……」
 それは虚勢を張っているというよりは、懇願に近かった。
「私がここで、ミラちゃんを警護するわ」
 そんな彼女の気持ちを汲んで、イリュアが声を上げる。不安げなエスティに、大丈夫、と彼女は金色の髪を揺らした。
「完全に力を失ってるわけじゃないから。……アルフェス君に顔向けできなくなるようなことは、しないわよ。絶対に。だから――エスティ君。ガルヴァリエルを……」
 エスティもまた、イリュアの思いを察して頷く。
 イリュアもまた、憔悴しているのだ。完全に力がなくなっていないとはいえ、ガルヴァリエル戦においては、もうそれほどできることはないと自覚しているのだろう。
 ここで万一のことがあれば、それを知らせることと、時間を稼ぐことくらいはできるとしても。
「エスティ君。私、何もかも貴方に押し付けちゃったね」
 金色の瞳に揺れた哀しみを、だがエスティはいっそ爽やかに笑い飛ばした。
「今更そんなこと言ってんのか? 説教しときながら、あんたが一番吹っ切れてないじゃないか。オレが動くのはオレの意志だ。それに――」
 一旦エスティが言葉を止める。少し迷ったが、そんな暇はないと気づいて、すぐに彼は言葉を継いだ。

「オレは感謝してんだ。大事なものを護る力をくれたこと」

 言葉を止めたのは照れたからだ、と――真っ先にそんなことを思ってしまって。
 イリュアは笑った。
 笑われて、不貞腐れながら、だけど彼女の瞳の奥底にこびり付いていた罪悪の念と哀しみが、和らいだことが嬉しい気もして。
「行くぞ、リューン、ラルフィ、シレア!! 急ごう!」
 踵を返す。
「“道”を辿っていけば、大丈夫だから!」
 イリュアの声を背に、返事の変わりにエスティは、真っ直ぐ黄金の道を駆け出した。